2026年3月号 聞き書きシリーズ
野田真衣氏 荒尾市観光文化交流課 世界遺産・文化交流室 副主任(学芸員)

なぜ彼らは海を渡ったのか
熊本県荒尾市にある宮崎兄弟資料館は、中国革命の父と呼ばれる孫文と、彼を支えた宮崎兄弟の友情と絆を今に伝える場所です。この地は、ある意味で中国革命の震源地とも言える場所でした。なぜ国内も激動の時代にありながら、宮崎兄弟は朝鮮や台湾、そして中国へと目を向けたのでしょうか。その根幹には、宮崎家の兄弟たちが代々受け継いできた壮大な思想と、この土地ならではの風土があります。
宮崎家はもともと肥後藩の下級武士の家柄ですが、「他国御横目役」として諜報活動を行うような役職についていた歴史があります。情報を収集し、世界情勢を分析する土壌が家庭内にありました。だからこそ単に周りの空気に流されるのではなく、自分たちで考え行動することができたのです。
滔天(とうてん)の考えていたことの原点は、お兄さんの彌蔵(やぞう)が提唱した「アジアでの革命」にあります。兄弟たちはそれぞれ異なるアプローチで時代と対峙しました。次男の八郎は、自由民権運動の先駆けとして西南戦争で西郷隆盛軍に投じ、27歳の若さで散りました。彼は単に西郷に心酔していたわけではなく、明治新政府の専制を倒すための現実的な手段として西郷と組み、いずれは独自の民主主義を目指そうとしていました。
六男の民蔵(たみぞう)は当時の土地制度こそが貧困の根源であると考え、「土地復権」を唱えた哲人です。そして七男の彌蔵は、欧米列強の圧迫からアジアを解放するためにはまず中国で革命を起こし、共和制を樹立すべきだと考えました。彼は自ら辮髪(べんぱつ)を結い中国人に成り済ましてまで革命に身を投じようとしましたが、志半ばで病に倒れます。
彼らの想いを一身に引き継いだのが、末弟の滔天でした。彼らの世代になると、武力で明治新政府と戦うことはもはや不可能でした。明治新政府による近代国家の構造が出来上がりつつある今、日本国内を変えることは正直難しい。そこで彼らが目を向けたのが、アヘン戦争や日清戦争を経て西洋列強の脅威にさらされていた中国でした。
隣国の改革志士たちと一緒になって体制を変えれば、その波及効果で日本にも変化をもたらすことができるのではないか。彼らのロマンは外にしかありませんでした。祖国において自分たちの理想を実現する場を失った喪失感が、彼らを大陸へと駆り立てたのです。それは決して侵略的な意図ではなく、世界革命への第一歩としての中国支援でした。

「ボロ滔天」と浪花節の革命
孫文を支援した日本人は多くいますが、宮崎兄弟の支援は徹底していました。明治30年(1897)滔天はまだ無名だった孫文の思想に深く共鳴し、荒尾の生家に招き入れました。
活動資金を稼ぐために、滔天は浪曲師「桃中軒牛右衛門(とうちゅうけんうしえもん)」として自ら舞台にも立ちました。彼の演じる浪花節は、単なる芸事ではなく革命の思想を大衆に分かりやすく伝えるための手段でもありました。当時の彼は着るものにも無頓着で、「ボロ滔天」と呼ばれていたそうです。50メートル先からでもその存在が分かるほど身なりを構わなかったといいますが、私利私欲とは無縁のその姿に、多くの人々が心を動かされました。
宮崎家の家訓には「金銭を求めるな」とあり、彼はそれを地で行く人生を送りました。先祖伝来の土地を切り売りし、家財を投げ打って革命に注ぎ込みました。一時は現在のグリーンランドから有明海にぶつかるまでの一帯の土地が宮崎家のものであったというほどの大地主でしたが、その財産のほとんどを失いました。
そんな滔天を支えた妻・槌子(つちこ)の存在も忘れてはなりません。彼女自身、自由民権運動家・前田案山子の娘として育ち、夫を単なる配偶者ではなく「同志」として見ていました。家計が火の車であっても夫が海外を飛び回っていても、彼女は不平を言うどころか自らも中国へ渡り革命家たちと交流しました。彼女が残した短歌には、日頃の苦労をユーモアや強さに変える知性が滲み出ています。
当時の1500人ほどの日本人が孫文に対して莫大な資金援助を行っていたといわれます。現在の価値に換算すれば月に2500万円規模の支援があったとも聞きます。九州には玄洋社をはじめ、理屈抜きで困っている友人を助ける「侠(きょう)」の精神を持つ人々が多くいました。彼らはリアリストであり経済人でもありましたが、その根底には損得勘定を超えた熱い情熱がありました。