亡き父の遺志を引き継ぎ「空の神兵」顕彰活動に全てをかける


2025年5月号 聞き書きシリーズ ─ 奥本康大氏 一般社団法人「空の神兵」慰霊顕彰碑護持会 代表理事

「国のために働く」出光イズム

国のため
ひとよつらぬき尽したる
きみまた去りぬ
さびしと思ふ

出光興産㈱の創業者である出光佐三店主が昭和56年(1981)満95歳で亡くなった時に昭和天皇がその死を悼まれ詠まれた御製です。歴代の天皇陛下が一般人の死に際してそのようなことをなさるのは異例中の異例です。佐三店主は国家が繁栄することを第一の目標に全力で事業に取り組んでいました。皇室崇敬の念は強く、社員にも「皇室あっての日本であり、出光である」と私たち社員に教え諭していました。

私は昭和50(1975)年4月、出光興産に入社しました。大学時代に高分子を専攻していて、出光がちょうど無公害樹脂の開発に取り組んでいたので興味を持ちました。いざ入社すると、石油化学に配属されず製油所に所属することになり、定年まで勤めましたが、現役時代は製造現場から管理部門、販売部門のあらゆる業務を経験し、十数年前に勇退しました。佐三店主の「国のために働く」というイズムは全社員に浸透していました。出勤簿なし、残業手当なし、馘首なしの型破りな企業でしたが、私たち社員の使命感の方が勝っていたので、社員から不満は一つも出ていませんでした。会社員時代は充実しており、社員同士仲が良く家族のような関係が築かれていました。
出光興産の定款の第1はもちろん石油業ですが、「人間の真の働く姿を顕現し、国家社会に示唆を与える」という第二の定款があり、我々社員の行動指針を徹底的に教え込まれました。

また、出光興産に入社した動機の一つに父が終戦時に仕えた上官で終戦時の連隊長が戦後、佐三店主に請われて入社されていたことです。その方は語学が堪能で戦前は駐在武官も歴任されており、戦後の出光の難局時の佐三店主の懐刀的存在でした。そんな縁もありお世話になった経緯があります。その連隊長の説得により父は終戦時切腹を思い留まったと聞いています。

店主は昭和20年(1945)の終戦の2日後、焼け残った本社講堂に社員を集め「愚痴をやめよ。世界無比の三千年の歴史を見直せ。そして今から建設にかかれ」と訓示しました。多くの企業が人員を整理する中、約1千名の従業員の首を切らないことを宣言しました。創業以来、一貫して大家族主義を唱えてきた佐三店主にとっては、当たり前のことであり、敗戦の難局にあってもその信念は揺るぎないものでした。社員との絆はさらに深まったと思われ、どんな窮地にも社員は立ち向かったのです。また、国のために尽くすという佐三店主の信念は、その後の「日章丸事件」を引き起こします。

日章丸事件とは、昭和28年(1953)、イランがイギリスの支配下にあった石油の国有化を宣言し、外貨獲得に向けた輸出を決断、出光と極秘裏に交渉を進めて輸出を決行。国際紛争に発展しましたが、最終的には出光の正当性が認められて川崎港に無事に揚げ荷された事件です。石油メジャーに鉄槌を浴びせる結果になり、これを機に世界的に石油の自由貿易が始まりました。日章丸事件を契機に良質の安価な石油製品が輸入されることに繋がり、日本の戦後復興が加速したと言ってもいいでしょう。

パレンバン作戦

私は昭和25年(1950)、元陸軍大尉奥本實の長男として大阪市南区に生まれました。父は戦後、公職追放に遭い、仕方なく薬剤師の資格を持つ母と共同で薬局を営んでいました。日本の主権が回復した後も「髪結いの亭主」の如く出掛けることが多い父でしたが、戦友、上官、部下の慰霊活動に心血を注いでいました。戦争時の未処理の感情が父を駆り立てていたのだと感じています。13年前、平成23年(2011)に91歳で亡くなりました。

父は戦前、戦中の自分自身の心中を整理するため数多くの手記を遺していました。その手記に接したのは遺品を整理した時からであり、初めて父の心中を知ることに繋がったのです。以前、親戚から「お前のお父さんは陸軍中尉の時に昭和天皇に単独拝謁を賜った。偉かったんだぞ」と言われていましたが、当時はそこまで関心はありませんでした。父の手記を読んで初めて父の戦争を知りました。通常、大佐つまり師団長以上でないと単独拝謁はできなかったのに、大尉だった父がなぜ賜ったのか。(注:パレンバン作戦時は中尉の小隊長、拝謁時も中尉。後に大尉に昇進)。父が、現在は知る人も少なくなった「パレンバン奇襲作戦」で殊勲甲の手柄をあげ、昭和天皇が石油を大量に確保できたことを大層お喜びになり単独拝謁に繋がったのです。。

インドネシアのスマトラ島南部にあるパレンバンは、大東亜戦争当時は東南アジア有数の大油田地帯で、品質が良い原油が出る油田が5つありました。当時のインドネシアはオランダの植民地でした。当時の日本も現在と同じように石油はほとんど輸入に頼っていました。しかし、昭和16年(1941)8月、アメリカが対日石油輸出の全面禁止に踏み切ります。この時の日本の石油備蓄量は1年半持てばいい方でした。

作戦の目的はパレンバンの市街に2カ所ある製油所と郊外にある飛行場の制圧でした。パレンバンは川の河口から約100キロの内陸にあるため、船による上陸作戦では敵に設備などを破壊する余裕を与えてしまう恐れがあったので、落下傘部隊による奇襲作戦を計画しました。2月14日、降下部隊はマレー半島を出発、パレンバンに向かいます。340名のうち240名が飛行場、100名が製油所に向け出撃しました。

当時の落下傘の性能では降下できる重量制限が厳しく、隊員たちが降下時に所持できるのは拳銃と手りゅう弾のみ。小銃と機関銃を入れた木箱は別の落下傘で投下されましたが、沼地やジャングルに降下したので取りにいけないこともあり、多くの兵が最初は拳銃と手りゅう弾のみで戦うことになります。

21歳の中尉で小隊長だった父は、飛行場近くのジャングルに降下した後、部下4人と落ち合いました。その地点から飛行場制圧に向け前進中に日本軍掃討に向かってきたオランダ兵を載せた軍用車両の車列に遭遇し、2度にわたる戦闘で30倍もの敵を撃破しました。日本兵340名に対してオランダ軍の守備隊は1300~1400名いたそうです。機先を制したことで彼らを敗走させ、たった1日で日本軍は飛行場と2つの製油所を制圧することに成功しました。精鋭無比な落下傘部隊の使命感と勇気がもたらした大戦果でした。当時、空挺作戦は珍しく、海外の実戦では約半数の降下兵が地上からの攻撃で命を失う危険な作戦でした。パレンバン作戦は日本陸軍として初めての空挺作戦で成功させました。

この作戦の成功で、日本は600万トンの石油供給力を手に入れました。当時の日本全体の年間石油消費量が約500万トンでしたからそれを上回る石油を確保できたのです。日本はその他の地域でも石油を確保して、その総量は年間約800万トンに達し、これがあったから日本はその後の3年半の戦争を戦い抜くことができました。

ちなみに私が出光に入社後の新入社員教育で、この作戦と出光との縁を知ることになります。


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