2025年10月号 特別寄稿

筆者略歴
大矢野栄次(おおやの・えいじ)/昭和25年(1950)、愛媛県生まれ。中央大学経済学部卒。東京大学大学院経済研究科博士課程単位取得退学。佐賀大学経済学部講師、同助教授を経て、久留米大学経済学部教授。令和3年(2021)から同名誉教授。経済学博士。理論経済学が専門で、経済学の視点で日本の歴史も読み解いている。著書に『ケインズの経済学と現代マクロ経済学』(同文館出版社)、『ミクロ経済学』(五絃社)など多数。
ドナルド・トランプ氏の「アメリカファースト」で「トランプ関税」が世界の貿易と安全保障の枠組みを根底から揺さぶっている。多くの識者が米中対立のさらなる激化を予測する一方で、大矢野教授はその二項対立の奥深くで、全く新しい世界秩序が静かにしかし着実に形成されつつあり、その鍵を握るのは、アメリカでも中国でもなくわが国だという。
トランプ関税は自己矛盾で崩壊する
結論から言えば、トランプ関税は今年中に失敗します。
なぜなら、彼の戦略には構造的な自己矛盾が潜んでいるからです。トランプ氏が掲げる『Make America Great Again』の核心は、海外に流出した製造業を国内に回帰させ、アメリカの雇用と産業を取り戻すことにあります。そのための武器が、中国をはじめとする各国からの輸入品に高い関税を課す保護主義的な政策です。しかし、これが全く機能しない。
GM、フォード、ステランティス(クライスラー)といったアメリカを代表する自動車メーカーを見てみれば一目瞭然です。彼らの製品を構成する部品のほとんどが、実はメイド・イン・ジャパンなのです。特に、性能を左右する電装系や精密部品などのコア技術は、日本の独壇場です。トランプ氏はメキシコやカナダの工場をアメリカに戻せと叫んでいますが、たとえ工場が戻っても、基幹部品を日本からの輸入に頼る構造は変わりません。むしろ、日本の部品に関税をかければ、アメリカ国内で生産される自動車のコストは跳ね上がるだけ。これは完全な自縄自縛です。
この状況は自動車産業に限りません。皆さんが使っているiPhoneの高性能カメラのレンズはソニーやニコン製ですし、世界の空を飛ぶドローンの多くも日本の技術に支えられています。アメリカが自国の産業の根幹を実は日本の見えざる技術力に深く依存しているこの現実に、トランプ氏自身が気づいていないことが、彼の政策の最大の隘路となっているのです。
この失敗が明らかになるとき、それはすなわち『アメリカ時代の終わり』が誰の目にも明らかになる瞬間です。アメリカ覇権の黄昏は、実は1971年のニクソン・ショック(金・ドル交換停止)から始まっていました。アメリカはその後、ドル安への誘導と製造業の拠点を中国へ移転させることで延命を図ってきました。日本もその流れに乗り、いわば合作の形で中国を繁栄させてきたのです。しかし、経済力をつけた中国は『一帯一路』などで反米的な動きを見せ始め、アメリカは自らが育てた競争相手に足元をすくわれる形になりました。産業の空洞化が進んだアメリカには、もはや有効な対抗策が残されていなかったのです。
「失われた30年」は「臥薪嘗胆の30年」だった
では、その間、日本は何をしていたのか。よく『失われた30年』と言われますが、私はこれを『臥薪嘗胆の30年』だったと見ています。
バブル崩壊後、半導体や家電など、かつて世界を席巻した日本の産業は、韓国や中国の安価な大量生産の前に次々と敗れ去りました。しかし、その敗北の裏側で、日本は静かに、しかし着実に次の一手を準備していました。
大企業が低賃金労働を求めて海外へ生産拠点を移す中で、日本の多くの中小企業は国内に残り、ひたすらにコア技術を磨き続けたのです。成長はしないが、成熟しました。この臥薪嘗胆の30年があったからこそ、現在の日本の技術的優位性が生まれました。世界がITソフトの開発に熱中している間、日本はそのソフトを動かすためのハードウェア、つまり精密な物作りの技術を手放さなかった。これが決定的な差となりました。
この日本の真価は、今や世界のあらゆる最先端製品に組み込まれていて、この「物作りの力」こそが、これから始まる新しい世界システムの基盤になります。
静かに進む革命と「アメリカ外し」
そして今、その力が世界を動かし始めています。この数年、日本の経済産業省主導のもと、貿易システムに革命的な変化が起きていました。煩雑な書類手続きをオンラインで一元管理する完全電子化貿易プラットフォームの構築です。これにより、輸出入にかかる時間とコストは劇的に削減されます。
この新しい貿易システムを高く評価したのが、カナダでした。そしてカナダは、ドイツやフランスといったヨーロッパ諸国を口説き、従来の『アメリカ基準』から離脱し、この日本のシステムを基盤とした新たな貿易圏を構築しようと動き出したのです。さらに、製造業の国際基準も、アメリカの基準ではなく日本のJIS(日本工業規格)をデファクトスタンダード(結果として事実上標準化した基準)にしようという流れが生まれています。重要部品のほとんどが日本製なのだから、その方が合理的だという判断です。
この他にも「アメリカ外し」を実行している国々があります。
ブラジルのレアアース39鉱山全てが日本に移管されました。ブラジルの鉄鋼輸出も日本スティールが管理することになり、チリ、ボリビア、アルゼンチン、ウルグアイなどの南アメリカ諸国もブラジルに追随する姿勢を見せています。フランスはアメリカからの農産物輸入を排除、ドイツはアメリカのIT関連製品をサイバーの安全上の理由で排除、イタリアは自国の文化を護るためにアメリカファッションの輸入を禁止、スペインはLNGの米国からの輸入を禁止、オランダはロッテルダム港の対米輸入を閉鎖、インドはムンドラ港の対米輸入閉鎖などです。