2026年6月号 特別寄稿

筆者略歴
住吉正州(すみよし・せいしゅう)氏略歴/昭和32年東京都生まれ。日本大学藝術学部卒業。フジテレビ系映像ディレクターとして勤務後、広告代理店に転じる。その後、在野にて政治制度史の研究に従事。
はじめに
本稿では、古代から中世初期までの継承は宮内庁の天皇系図に依拠しつつも、固定的な「宮家」制度がまだ未成熟であるため、近世以降のような意味での「宮家継承」とは区別して論じる。宮内庁の天皇系図自体も、初期部分は皇統譜に基づく伝統的系図として掲げられているため、この点を方法論上の前提とする。
「宮家継承」考
・皇統維持機構としての宮家の動態的研究
序論
皇統の持続を論じる場合、しばしば表面に現れるのは「直系継承」のイメージである。だが、実際の歴史を仔細にみると、皇統は単純な一直線では維持されていない。むしろ、皇位を継ぐ本流の背後に、分岐した皇族家を待機させ、必要時にそこから「皇位継承者」を立てる複数構造によって支えられてきた。この待機系統こそが宮家であり、宮家継承とは、皇統の途切れを未然に防ぐための歴史的装置であった。
宮家の歴史を語るだけでは、その本質は見えにくい。重要なのは、宮家が「存在した」という事実ではなく、皇統危機の局面でどのように動員され、どのような論理によって即位者や養子・相続者を供給してきたのか、という運用の実態である。江戸時代の四親王家、明治以降の伏見宮系諸宮家、そして戦後の旧十一宮家に至るまで、その歴史を貫くのは「宮家は飾りではなく、継承予備系である」という一点である。
第壱章 宮家継承の定義
本稿でいう宮家継承とは、狭義には、皇位継承者が不在または極めて脆弱な場合に、天皇家の本流とは別に存続していた宮家から天皇を出すことを指す。広義には、それに先立つ家の維持、養子、親王宣下、皇子の移入、皇女の婚姻による接続まで含む。江戸時代までの天皇・皇族による養子の例は、国会図書館に蔵する資料や参議院立法調査資料でも、直系継承の擬制、親王宣下、世襲親王家や寺家の継承、特別の恩寵という複数類型に整理されている。つまり宮家継承とは、即位の一瞬だけではなく、その前段にある家の保存行為全体を含む概念である。
この意味で、宮家継承は単なる傍流の温存ではない。天皇家に後継者がいない場合は世襲親王家から新帝が選ばれ、逆に宮家に跡継ぎがいない場合には天皇の皇子を迎え入れて互いの存続を図ったとされる。ここには、一方通行ではない往復運動がある。すなわち、宮家は本流から枝分かれした家であると同時に、必要時には本流へ人材を戻す循環装置でもあった。
第弍章 古代・中世前期における前史
古代から中世前期にかけては、後世のような固定的宮家制度は未成立である。したがって、この時代の継承をそのまま近世的な「宮家継承」と呼ぶのは慎重であるべきである。ただし、兄弟間継承、叔父甥継承、遠縁継承が繰り返され、皇統が常に複線的に維持されていたことは、宮内庁の天皇系図からも確認できる。これは制度化以前の「潜在的宮家構造」と呼ぶべき段階である。
この時代の本質は、皇位が常に単線で継承されたのではなく、複数の皇統分岐の中から政治的・祭祀的・年齢的条件を満たす者が選ばれていた点にある。後世の宮家制度は、こうした複線的継承の現実を、より持続的かつ家制度的に固定したものとみることができる。したがって、宮家は突然発明された制度ではなく、古層から存在した複数血統維持の論理が中世以降に制度化されたものと位置づけられる。
第参章 伏見宮家の成立と「宮家を生む宮家」
宮家継承の実状を語るうえで、最重要なのは伏見宮家である。伏見宮家は、旧宮家の中で最も古く宗家とされ、北朝第三代崇光天皇の第一皇子である栄仁親王を祖とし、六百年以上続いた家系とされる。戦後に皇籍離脱した十一宮家も、すべてこの伏見宮の系統に属すると政府系資料は整理している。
伏見宮家の決定的な意味は、自らが一つの宮家であるだけでなく、他の「宮家を生み出す母体」であった点にある。伏見宮家は、代々、天皇または上皇の養子・猶子となって親王宣下を受け、宮家を世襲する家として位置づけられた。その後、桂宮、有栖川宮、閑院宮という他の世襲親王家が成立し、江戸時代には四親王家と総称された。ここで初めて、皇統の予備系を家として持続させる装置が完成したのである。