2025年11月号 そこが聞きたい! インタビュー

西側メディアが報じる「ロシアによる一方的な侵略」。しかし、その情報の裏で、ウクライナ政権が自国民をジェノサイドし続けた8年間があったという事実はほとんど知られていない。2022年の軍事作戦開始以降、日本人として初めて公式的に紛争下のドンバス地域に入った田中健之氏は、この紛争の起点は西側による情報操作と挑発にあり、ロシアの軍事行動は同胞を守るための苦渋の決断だったと断言する。
田中健之氏 歴史家・黒龍會会長・アジア新聞社およびアムール通信社会長・日露善隣協會会長
昭和38(1963)年、福岡市出身。歴史家。黒龍會会長、アジア新聞社およびアムール通信社会長、日露善隣協會々長。拓殖大学日本文化研究所附属近現代研究センター客員研究員を経て、岐阜女子大学南アジア研究センター元特別研究員、現在、ロシア科学アカデミー東洋学研究所客員研究員、モスクワ市立教育大学外国語学部日本語学科客員研究員。玄洋社初代社長平岡浩太郎の曾孫に当たり、黒龍會の内田良平の血脈道統を継ぐ親族。昭和58(1983)年に中国反体制組織『中国の春』の設立に関与し、平成元(1989)年6月4日に生じた天安門事件を支援、亡命者を庇護すると共に、中国民主運動家をはじめチベット、南モンゴル、ウイグルの民族独立革命家と長期にわたって交流を重ねている。平成3(1991)年、ソ連崩壊と共にロシアに渡り、ロシア各界に独自の人脈を築く。一方、幼少より玄洋社、黒龍會の思想と行動に興味を抱き、長年、孫文の中華革命史およびアジア独立革命史上における玄洋社、黒龍會の歴史的、思想的な研究に従事、その歴史上、思想上における独自の視点で、近現代史、思想史を論じている。主な著書に『昭和維新』(学研プラス)、『靖国に祀られざる人々』(学研パブリッシング)、『横浜中華街』(中央公論新社)、『実は日本人が大好きなロシア人』(宝島社)『北朝鮮の終幕』(KKベストセラーズ)、『お父様、お母様お元気ですか?僕は元気です』(アジア新聞社)、『天使の並木道―ウクライナ人がウクライナ人をジェノサイドした8年間の記録』(ヒカルランド)など、その他著書多数。
命がけの訪問が伝える現地の惨状
―まず、今回ドンバス地域(ドネツク人民共和国、ルガンスク人民共和国)へ行かれた目的からお聞かせください。現地はまだ戦闘が続いているとのことですが。
田中 もちろんです。特にドネツクはドンバスの中でも最も戦闘が激しい地域です。私が宿泊したホテルのわずか2㎞先にもウクライナ側の攻撃用ドローンが飛来、爆撃をしていましたし、市内にはミサイルや砲撃の音が常に花火大会のように響いていました。モスクワの入国管理局でも「ドンバスは危険な場所ですが、それでも行きますか?」と念を押されたほどです。2014年以降、公式にこの地を訪れた日本人はいません。
―そのような危険を冒してまで、現地に行かれたのはなぜですか?
田中 目的は3つありました。1つは、私の著書『天使の並木道』のプレゼンテーション。2つ目は、現地の現状をこの目で視察すること。そして3つ目は、今後のドンバスと日本の関わり方を模索することです。特に、この本で写真を使わせていただいた戦場カメラマン、ゲンナジー・ドゥボヴォイさんの遺稿集を私が翻訳出版することになっていまして、その打ち合わせも重要な目的でした。
―ゲンナジーさんとは、どのような方だったのですか?
田中 彼は2014年から現在のウクライナ政権と戦ってきた人物です。ドネツク人民共和国の建国功労者であり、カメラマンでありながら自らも武器を取って戦いました。そして2022年、ウクライナ側によって暗殺されました。興味深いことに、彼は日本の三島由紀夫を深く尊敬していました。彼の遺稿集の著作権を持つ奥様のエレナ・シィシキナさんは、ドネツク人民共和国の議会の議員で、ドネツク人民共和国のナンバー3ほどの地位にある方で、彼女と直接会って今後の翻訳出版の相談をする必要があったのです。
―著書のタイトルにもなっている「天使の並木道」は、現地の追悼碑の名前だと聞きました。
田中 はい。私の最新刊『天使の並木道 ウクライナ人がウクライナ人をジェノサイドし続けた8年間の記録 2014~2022』で詳述していますが、これはドンバスでウクライナ人の手によって犠牲になった子供たちの追悼碑の名に由来します。ゲンナジーさんを含め、本書に写真を提供してくれたカメラマンの何人かは、真実を伝えようとしたためにウクライナ政府に暗殺されています。彼らの死を無駄にはできません。

葬られた「8年間のジェノサイド」
―西側の報道に慣れた私たちにとって、ウクライナが自国民を攻撃していた、という話はにわかには信じがたいのですが。
田中 全ての始まりは2014年に米国の支援で起きた「ユーロ・マイダン革命」です。これにより誕生した親米欧のネオナチ思想を持つキエフ政権が、自分たちに反対する人々やロシア語を話す人々への弾圧、つまりジェノサイドを開始したのです。
―8年間も、ですか。
田中 そうです。ミンスク合意という停戦合意もありましたが、政界から引退したドイツのメルケル首相が雑誌に告白しているように、西側はこれを単なる時間稼ぎに利用し、その裏でキエフ政権へ大量の資金と兵器を供与し続けました。そして十分に力をつけたと判断したキエフ政権は、ロシアが「特別軍事作戦」を発動するわずか2日前、ドンバスの幼稚園や学校、病院などに約4000発ものミサイルを撃ち込みました。
―それが、ロシアが軍事行動を起こした直接の引き金になったと?
田中 ええ。これに耐えかねたドンバスの人々が、8年前に住民投票で独立した人民政府の承認と安全保障をロシアに要請しました。8年間も同胞が虐殺され続ける状況を、ロシアとしてもはや座視できなかった。これは侵略ではなく、自国民保護のための苦渋の決断だったのです。
―現地の住民の皆さんの声はいかがでしたか?
田中 会った人々は皆、「ロシアが来てくれて安定した。良かった」と話していました。年金もきちんと支給され、仕事もできるようになったと。ドネツクはかつて日本の筑豊と同じ炭鉱の町で、労働組合を通じた交流もあったんですよ。ボタ山がある風景も、福岡の田川市のようでした。至る所に砲撃の痕はありましたが、道路などは攻撃を受けた翌日には修復工事が始まるなど、インフラの復旧は迅速でした。彼らは自分たちをロシア人だと認識しており、ロシアへの編入を心から大歓迎しているのです。