2026年5月号 聞き書きシリーズ
木村岳雄氏 建国義勇軍元メンバー

師走の取調室、沈黙を破った
「焼き肉」の一言
平成15年(2003)の暮れ、警視庁公安三課の取調室。深夜の冷気に包まれた深更の調べ室は、2畳ほどの狭い部屋でした。公安三課の刑事が2人、私の反応を探るように睨みつけていました。私は小窓の外の師走の街を思い、視線をそらしかけていました。
広島での決起から半年、私はその関与を頑なに否定し、のらりくらりと刑事の追及をかわし続けていました。「おまえは広島にいたな」という問いに対しても、供述を拒み続けていたのです。建国義勇軍の指導部がどのような状況にあるかもわからぬまま、勾留という初めての経験に相当な精神的重圧を感じていました。そんな私の態度に刑事たちは徐々に苛立ち、重苦しい沈黙がしばらく続きました。
ところが、顔色の悪い一人の刑事が唐突にこう切り出したのです。「焼肉、好きか」。
藪から棒に何を言い出すのかと思いました。それまでの広島の件とは何ら関わりがないように思えたからです。しかし、その刑事は何かしら動かぬ証拠を突きつけたかのように鬼の形相で私を自信たっぷりに睨みつけていました。その全身からは、妖気が立ち上がらんばかりの気迫が溢れていました。
意図が解せぬまま、私は仕方なしに「はい……時々食べますが」と間抜けな返事をしてしまいました。食べ物の嗜好ならいくら話しても差し支えない、むしろそんな質問ばかりしてほしいとさえ思っていたのです。しかし、刑事は仕掛けた罠に掛かった獲物を眺める猟師のように勝ち誇った精悍な表情を見せました。
その焼き肉屋の怪は、後に真相が解明されました。やはり、広島の事件でした。それから遡ること半年、我々がなした広島日教組への拳銃発砲を伴った懲罰行動を指していたのです。当日集まった、私も含めた同志4人は決行前、確かに焼き肉屋で腹ごしらえをしていました。要するに刑事のその言葉は、「おまえの仲間は既に喋っている。おまえはあの日広島へ行き、仲間3人と共に焼き肉を食べた後、日教組に拳銃を撃ち込んだではないか。しらばくれたところで、すべてお見通しだ」ということだったのです。
その一言に、私は全身の血が逆流するような衝撃を受けました。事件直前の夜、仲間と食べた焼き肉の煙までが警察には筒抜けだった。私の「日常」は、その瞬間に音を立てて崩れ去りました。
脆弱なアイデンティティと
マルクス思想という「災厄」
私は昭和44年(1969)1月6日、京都府宇治市で生を受けました。父の転勤に伴い各地を転々とする日々。本籍こそ「火の国」熊本にありますが、実のところ私には「故郷がはっきりしない」という空虚さが常に付きまとっていました。高度成長期以降、日本に現れた「根無し草」のような存在。自分は何者なのかというアイデンティティの脆弱さ、その心の隙間を埋めるようにして私は「愛国」の道へと突き動かされていったのだと、今では自己分析しています。
人格形成の要となる中学・高校時代を過ごした京都での体験は、私の人生を決定づけました。当時の京都は、共産党や日教組の支配による全体主義が蔓延し、個人の希望を封じ込める中央統制的な教育が平然と行われていたのです。進学する羽目になった私立高校の校風に馴染めず中退を余儀なくされた私は、マルクス思想がもたらしたこの「災厄」に深く絶望しました。
一度は人生を投げ出しかけた私を救ったのは、「生長の家」との出会いでした。そこで日本が天皇を中心とした国家であることを学び、私は再び生きる力を得たのです。
その後、会社勤めを経て、縁あって「青年自由党」の本部職員となりました。党首の中村功氏は、東日本ハウスの創業者として知られる実業家です。「今の政治家には実業の精神が足りない」と世を憂いて決起した中村氏のもと、私は中小企業の地位向上と、我が国の歴史・伝統・文化の尊重を掲げ、大小さまざまな選挙に奔走しました。
私自身、新宿区から立候補し、有権者に真摯に訴えかけましたが、結果は力及ばず、党勢の拡大も叶いませんでした。選挙という厳しい現実の前では、候補者の思想や真摯な考えが必ずしも正当に届くわけではないという現実も目の当たりにしました。
しかし、政治の最前線で戦った日々は決して無駄ではありませんでした。大勢の前で想いを伝える「演説」の技術を磨き、また、自分の信念を「文章」として丁寧に綴ることの大切さを痛感しました。
故郷を持たぬ根無し草だった私が、日本の伝統という「精神の故郷」を見つけた今、語るべき言葉には確かな体温が宿っていると信じています。
義勇軍の充足と
一振りの短刀が結んだ邂逅
最前線で闘う兵士は、次第に口数が減っていくものです。義勇軍活動に身を投じたあの半年間、私は世相批判をした覚えがありません。保守運動の界隈には、会っている間中、朝日新聞や日教組の悪口に終始する人々もいますが、我々と会長の間には、そうした「くどくどしい言葉」は必要なかったのです。
一度、私が迂闊にも月並みな日教組批判を口にした際、会長が無言のままさっと顔色を変えてそれを拒んだことがありました。「そんなことは分かっている。だから俺たちはやるのだ」――。言葉の軽率さを恥じたあの瞬間、私はこの活動が、心ある国民の怒りを我々自身が体現し、狂った社会の道筋を矯め直す「生々しい実戦」であることを痛感しました。我々には、敵に対する怒りを表現する「強力な手段」が既にあったのです。
そんな村上会長と初めて出会ったのは、名古屋の刀剣市でした。かつて私が青年自由党時代に尖閣諸島への上陸を試みたのと同様、実際に上陸を果たした「同志」として紹介されたとき、得も言われぬ深い縁を感じました。
目の前の会長は意外なほど紳士的でしたが、パンフレットに載る日本刀を構えた勇猛な姿こそが、彼の本質であることは明白でした。高価な刀には手が届かない私に、会長は「男なら一つぐらい持ってないと」と、一振りの短刀をあっさりとまけてくれました。