2026年4月号 聞き書きシリーズ
阿形充規(あがた・みつのり)氏 「社会の不条理を糾す会」 代表世話人
山平(やまだいら)重樹氏 ノンフィクション作家(同席者)

変貌した歌舞伎町と「浄化」の実態
かつて私の地元といえば歌舞伎町でしたが、街の変貌ぶりは激しいものがあります。コマ劇と呼ばれていた新宿コマ劇場近くの噴水もなくなり、最近はかつて新宿の象徴だったアルタのビジョンもなくなりました。あそこはかつて「二幸(にこう)」という名高い食品デパートがあった場所です。戦後から昭和の新宿を知る者にとって二幸は単なる店ではなく、待ち合わせの定番であり街の顔でした。その並びには大規模な大衆レストランとして親しまれた「聚楽(じゅらく)」があり、伊勢丹があってそのあたりは虫食いみたいに道が入り組んでいました。私の青春時代、あの二幸の裏あたりはまさに血をたぎらせた場所でしたが、今は随分と様変わりしてしまいました。
例えば、ゴールデン街。かつては作家や映画監督、演劇人たちが集う「大人の飲み屋街」であり、多少のいかがわしさと文化的な香りが混在する場所でした。しかし、今は外国人ばかりの観光地になってしまいました。店側も儲け主義に徹して外国人をどんどん入れるようになり、私たちのような古い人間には居心地の悪い場所になってしまったのです。かつて「ユニアン」のような店で「大多摩ママ」たちが守っていた、あの独特の空気感はもうありません。
街の風景だけでなく、治安の質も変わりました。昔は青線がありポン引きが我が物顔で歩いていましたが、そこにはある種の秩序がありました。今は「トー横」と呼ばれる場所に若者がたむろしたり、ホストクラブの借金に縛られた若い女の子や外国人の街娼が大久保の公園周辺に立っていたりします。警察が取り締まりを強化しても場所を変えるだけでいたちごっこが続いており、かつての街が持っていた自浄作用は失われてしまいました。
テキ屋の精神と「寅さん」
ここで一つ明確にしておきたいのは、「暴力団」という言葉は戦後に警察側が管理の便宜上から一方的に作り出し、レッテルを貼った呼称に過ぎないということです。私たちは自らを暴力団と名乗ったことは一度もありません。私たちはあくまで「任侠道」に生きる者であり、あるいは「テキ屋」「博徒」といった伝統的な稼業を継ぐ者です。
私が身を置いてきた任侠の世界には、独特の文化と歴史があります。特に「テキ屋」と呼ばれる露店商の世界は奥が深い。彼らが祀っているのは「神農(しんのう)」という神様です。神農は中国の伝説の皇帝で、民に農業と医薬を教えたとされています。なぜテキ屋が医薬の神様を祀るのか。それは、かつて露店商が街頭で薬を売っていたことに由来します。「神農道」とは薬で人を助け、商売を通じて世の中を渡っていく精神的な支柱なのです。日本全国、365日どこかで必ず祭りが行われています。その祭りの賑わいを支えているのがテキ屋です。彼らは流れ者に見えて、実はしっかりとした組織に属しています。
映画『男はつらいよ』の車寅次郎、通称「寅さん」を思い出してください。彼はふらりと旅をして適当に商売をしているように見えますが、実はそうではありません。映画の中で彼が「四角四面(しかくしめん)は豆腐屋の娘」といった独特の口上(タンカ)を述べますが、あれは素人にはできません。寅さんはどこかの一家に所属し、仁義を通しているからこそ旅先の縁日でも商売ができるのです。あの映画がなぜあれほど日本人に愛されたのか。それは、寅さんが「任侠の精神」を体現していたからです。困っている人がいれば放っておけない、頼まれもしないのにお節介を焼き、そして自分の恋は実らずに去っていく。そこには、日本人が本来持っていた「義理人情」や「やせ我慢の美学」が詰まっています。テキ屋やヤクザといったアウトローが、実は日本の原風景や大衆文化の担い手でもあったのです。
警察が機能しなかった時代の「防波堤」
今の若い人には想像しがたいことですが、戦後の混乱期に警察の力は無に等しいものでした。渋谷警察署が武装した不良外国人に襲撃・占拠される事件すら起きる中、身体を張って街を守ったのは誰だったか。それが地元の任侠団体やテキ屋の親分衆でした。新宿で言えば「新宿の天皇」と呼ばれた尾津喜之助(おづ・きのすけ)氏をはじめ、和田組、安田組、野原組といった組織が「テキ屋王国」を築き警察の手の負えない荒くれ者たちに対抗し、街の秩序を維持していました。警察自身が手に負えないから、裏の力に頼らざるを得なかった側面があるのです。
この構図は、ずっと後年まで続きました。2000年代初頭、歌舞伎町に中国系マフィアや韓国系組織が大量に入り込み、我が物顔で振る舞った時期がありました。「青竜刀を持った集団が暴れている」なんて話も日常茶飯事でした。この時も、警察だけでは彼らを排除しきれなかった。そこで動いたのが任侠団体でした。彼らは街を守るために徹底的に戦いました。ある時、落合の浄水場近くで中国系組織の人間が1人殺害される事件が起きました。これは「店を閉めて出ていけ」という強烈なメッセージでした。結果として、彼らは恐れをなして歌舞伎町から撤退していきました。暴力が良いとは言いませんが、「裏の理(ことわり)で、表を律する」ことでしか守れない治安があったのも事実なのです。