そば実の保存、丸抜き─十割そばの神髄 飲食店経営という幼い頃の夢


2025年1月号 人・紀行 ─ 太田晴之さん 十割そば処「竹亭」店主

太田さんの本業はアートフラワーなどのレンタル販売会社、生花・鉢物卸会社2社の社長さんなのだが、そば店の店主の肩書を使った。そこに辿り着くまでの太田さんの人生が結集されていると感じたからだ。

九州のそば事情

九州、特に福岡は蕎麦よりうどんの方がよく食べられている。しかし、そばの実は九州でも採れるし実際にそば屋もある。また、博多はうどんとそばの発祥の地とも言われ、博多の古刹・承天寺には「饂飩蕎麦発祥之地碑」が建立されている。鎌倉時代に宋から帰朝した聖一国師(円爾)が「水磨」と言う水車による製粉技術を持ち帰り、現代に受け継がれているうどん・そばの作り方を日本に広めた。博多で日宋貿易の中心人物だった南宋人の商人・謝国明が大晦日、貧しい人々にそばをふるまったことが、年越しそばの始まりと言われている。

九州など西日本ではうどんがそばよりよく食べられていて、その一方で東日本ではそばが比較的よく食べられている。その理由は、気候風土にあると言われている。つまり、そばは古くから救荒作物として栽培され、寒冷な気候や痩せた土地に強いので、東日本にそばを嗜好する地域が多く、うどんの原料である小麦は温暖な気候で育つので、西日本にうどんを嗜好する地域が多くなった。そうした食習慣からか、近年まで九州ではざるそばはあまり食されなかった。

もちろん、九州にもそばはあるにはあったが、関東からやってきた人が「つゆが甘すぎる」と口をそろえていた。西日本では薄口しょう油が使われるのに対して、東日本は濃口しょう油が主流。関東のうどんの汁が真っ黒なのに驚いた読者も多いと思う。逆に関東から九州にやってきた人が口々に言うのが、九州の麺つゆは甘すぎるということ。うどんが好まれて食べられていた九州では、薄口しょう油あるいは甘口しょう油を使うため濃口しょう油に舌をならされている関東の人の口には合わない。最後の仕上げにつゆに入れて飲むそば湯にいたっては甘すぎる。筆者もそばをあまり食べていなかったのは、このつゆの甘さにあった。

ところが最近は濃口しょう油でつゆを出すそば屋が増えて、筆者もよくそばを「手繰る」ようになった。そば発祥の地にそばの食文化が先祖返りしたと言ってもいいかもしれない。データがあるかどうか分からないが、それまでうどんの比率が高かった福岡でも今ではそばが肉薄しているのではないか。

さて、そのそばだが「二八(にはち)」という言葉がある。これは、そば粉が8割、小麦粉が2割の比率のこと。この割合でそばを作ることで、そばの食感に特徴的なしなやかさが加わる。そば粉が多めに含まれているため、麺がしっかりとしたコシを持ちつつも、なめらかで滑らかな口当たりが特徴。一方で、小麦粉が一定量混ざっているため、麺がしっとりとした食感を味わえる。中には太田さんの店のように十割そば、つまり小麦粉が全く入っていないそばもある。ただ、つなぎの小麦粉を使用していないのでパサパサになって切れやすい。だが、太田さんのそばは違う。

ミシュランガイド

と、ここまで通でもないのにそばの蘊蓄を垂れた。本題に入ろう。

福岡県宇美町の子安安産の神様で有名な宇美八幡宮のすぐ隣にある店で話を聞くことになった。お宮の社伝「伝子孫書」によれば、神功皇后が三韓征伐からの帰途に応神天皇を産んだ地に、敏達天皇3年(574年)に応神天皇を祀ったのに始まる。「宇美」の地名も「産み」に由来するもの。鎌倉時代初期には安産の神として信仰されるようになった。境内には、神功皇后が出産のときにすがりついたという「子安の木」、応神天皇の産湯に使ったと伝えられる「産湯の水」などがある。境内末社・湯方殿の前には「子安の石」と呼ばれる拳大の石が納められており、妊婦は安産を祈願してこの石を持ち帰り、出産後は別の新しい石を添えて返すという風習がある。筆者も息子の安産祈願に参った。

店は、2014年と2019年のミシュランガイドで、価格以上の満足感が得られる料理「ビブグルマン」店として選ばれたこともある。
話を聞くためにその店に入ると、優しい空気が漂っている。コンビニエンスストア跡を居抜きで使い、木材、和紙、柿渋などを使って一年かけて自身が店内を内装したそうだ。

生家は博多を代表する近代の豪商・太田家に系譜を持つ。太田家は代々油商を営み、莫大な財産を築き、明治時代以降には銀行、第一徴兵保険(のちの東邦生命保険)を経営する。ちなみに小誌コラム『政談談論』の筆者で前衆議院議員の太田誠一さんは親戚にあたる。太田さんの実家は分家で油屋を引き継いだ。太田家の発祥は、初代清蔵が遠賀郡で江戸中期ごろに親戚を頼って博多に出て魚商を始めた。これが初代清蔵だった。太田さんの曾祖父は、四代目太田清蔵(太田家本家では清蔵を襲名)の実兄。太田さんは7代目にあたる。

祖父の代で油屋から風呂屋、酒屋に商売を替えた。父は出征、復員した時には焼け野原になっていた。文具店、和紙問屋を始めたがうまくいかなかった。その後、親戚のしょう油メーカー「ニビシ醤油」に勤務することになった。太田さんは昭和34年(1959)に4人兄姉の末っ子で次男として生まれる。

「右向け右というのが嫌なタイプで人と同じことをなぜやらないといけないのかと思うタイプの子供でしたね」

上の兄姉は成績優秀だったが、末っ子の太田さんは小学校低学年の時に担任の強権的な指導に反発して勉強嫌いになった。

兄が設計関係の仕事に就いたので、自分も同じ分野に進みたいと考えて大学を目指すが、数学が苦手だったために二浪する。しかし、太田さんには中学時代からいつかは飲食店をやりたいという秘めた思いがあった。よく遊びに行っていた菓子工場を営んでいた母方の実家が火災に遭って全焼し、その敷地内で喫茶店を始めた。その繁盛ぶりを目の当たりにして憧れた。

「一族には経営者が多く小学生の頃から社長になりたいと思っていました」

建築学科進学を諦め経理専門学校に通う傍ら、飲食店を学びたいと夜にはパブレストランでアルバイトを始めた。


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