2026年9月号 人・紀行 ─ ララクルジャパン 代表 久保山千可子さん

福岡を拠点に「ララクルジャパン」代表として、ピアノ教室や音楽サークル「少年少女みなみ」、日本唯一のオールジャンルコンクール「プレアデス国際音楽コンクール」などを展開する久保山千可子さん。その指導のもとから巣立った卒業生たちは、医師や教師、音楽家、官僚など、社会の第一線で活躍し続けている。さらに自身の長女は世界的ピアニスト、長男は異国でプロサッカー選手として10年間活躍したのち母の事業を支える存在となった。一人の音楽家が、なぜこれほど多彩な人材を続々と育て上げられるのか。その背景には、30年に及ぶ波乱万丈の挑戦と、「他人との比較ではなく自分と向き合う」ことを重んじる人間教育の確固たる軌跡があった。(本誌副編集長 飯牟礼信一郎)
社会で輝くリーダーを育てる
久保山流の指導法
久保山千可子さんのピアノ教室や音楽サークルは、医者や教育者など、音楽の世界を超えて社会の第一線で活躍するリーダーたちが続々と育つことで評判だ。
久保山さんは日本最大規模のピアノコンクールであるピティナ・ピアノコンペティションで「指導者賞」を20回以上連続で受賞する全国屈指の指導者であり、各種コンクールで審査員を歴任する。また、ピアニスト角野隼斗・角野未来さんの母である角野美智子氏とともに全国で開催する「子育てセミナー」は絶大な支持を集める。
「ピアノ教室の中でも、コンクールに熱心な子たちは音楽学校に進む傾向にありますが、私は音楽のレベルより『人間として大切な社会貢献の根っこを持つこと』を何より大切にしています」
一人の音楽家のもとから多士済々の人材が次々と羽ばたいていく、その根底には単なる技術指導にとどまらず「社会で力強く生き抜く人間力」を徹底して育む久保山流の指導法がある。
久保山さんは、コンクールや舞台は自分を高める「対外試合」と位置づける。極限の緊張感の中で目標から逆算して実力を出し切る勝負強さを養いながら、表彰式やステージではマイクを握り、自らの言葉で想いや目標を堂々と語るプレゼンテーション能力を磨き上げていく。
さらに平和劇やチャリティを通じて「自分の表現を誰かのために生かす」という利他の心を芽生えさせ、年上の子が年下を世話する多世代の「縦割り」の環境の中で、思いやりと助け合いを肌で実感させていくのだ。
「大勢の前で挑戦を重ね、自らの意志を言葉にする発信力と人間力を身につけた子どもたちは、就職や進学の面接でも圧倒的な強さを発揮します。どんな道を歩んでも心が折れず、自らの手で目標を切り拓いていけるんです」
この人間教育論は、どのようにして形作られていったのだろうか。
父から託された命の感性
その根っこには、北海道で生まれた幼少期の記憶と、尊敬していた父親の姿があった。
早稲田大学の文系に進んだ札幌生まれの父親は、幼少期に体が弱く文学少年として育った。長崎で被爆しながら救護に尽力し、畳二畳の「如己堂」で『長崎の鐘』などを執筆して平和を訴え続けた医学者・永井隆博士の生き方に深く共感。小学生時代に送ったファンレターに対し、死の直前の博士から返信をもらうほどの豊かな感受性を持っていた。
「狭い一つの部屋で布団を並べて両親と子ども3人が寝床を共にする家庭でしたが、家にある一台のテレビで時に人種差別、戦争映画、ホロコーストなどの番組が流れていました」
後に東京で会社を起こし、韓国とのビジネスにも挑む父親の背中を通じてアイヌの歴史や同和教育など、人権や命を尊ぶ心が自然と久保山さんの血肉になっていったという。
ピアノとの出会いは5歳のとき。両親が共働きで預けられていた保育園にピアノ教室の講師の子どもがいた縁から、足踏みオルガンを準備してもらい、母に勧められたのが始まりだった。小学6年生まで家にピアノすらない環境だったが、学校の伴奏で褒められたことを機に音楽の道を志す。「ピアニストになる」と書いた作文を先生に一蹴されたことで本気になり、母も働き、ピアノを購入。音大受験の猛特訓に耐え抜き、国立音楽大学へと進学した。
しかし、音大のきらびやかな世界に馴染めなかった久保山さんは、他大学のサッカー部でマネージャーを務める道を選ぶ。高校時代に演劇部で脚本や衣装、メイクなどの「裏方制作」の面白さに目覚めていたこともあり、音大の授業後はサッカー部のグラウンドに向かい部室の掃除やボール拾いに奔走した。その傍ら、自宅では近所の子どもたちを集めて自らピアノ教室を立ち上げ、早くも指導者としての第一歩を踏み出していた。
卒業後はピアニストとしての演奏活動や指導の傍ら、全日空のサッカー部で2年間マネージャーを担当し、審判講習会や日赤の救急法講習にも通い、チームを裏から支え続けた。
「ピアノは自分一人で向き合う世界ですが、サッカー部の大勢の仲間が一つのボールを追いかける姿や、試合に勝つ充実感、お互いを讃えあう時間を実感しました」
福岡へ移住
合唱団を引き受け、音楽サークルを立ち上げる
裏方としての組織づくりが大きな転換期を迎えたのは、1995年の福岡移住だった。サッカー選手の夫が所属し、キャプテンを務めていたサッカーチーム(藤枝ブルックス・現アビスパ福岡)の、50万人規模の署名運動による福岡移転が決定したのだ。
「アルゼンチンの選手たちと共に福岡にやって来て、スペイン語と日本語が混ざり合う環境で子育てを始めました。雪が降らず大らかでご飯が美味しい福岡は楽園だと感じました」
そんな折、小さな合唱団と運命的に出会う。福岡でもピアノ教室を開いていた久保山さんのもとへ、知人から「子どもがいるなら合唱団の見学に来ないか」と声がかかったのが始まりだった。
「ところが、見学に訪れたまさにその日に合唱団の解散が発表されたんです。残された子どもたちが可哀想で放っておけず、そのまま団体とステージ衣装を引き取りました」
引き継いだ「少年少女南区合唱団」の名前を、親しみやすい「少年少女みなみ」へと改め、娘の友人や幼稚園へ声をかけて仲間を集め直した。
「ただじっと立って歌うのではなく、踊りも演技も取り入れたミュージカル合唱団=音楽サークルに育てようと奔走しました」
やがて夫が現役選手を引退し、大学サッカー部の監督へ就任したため、家計を支えながら合唱団とピアノ教室を守るために心血を注ぐ。生活のすれ違いから別居と離婚を経験したものの、この楽園の地で音楽サークルとピアノ教室を最後まで育て抜くと覚悟を決めた。そして、困難の中で培われた強い精神力と母親の深い愛は、地域の小さな合唱団を温かな組織へと蘇らせていくことになる。