2026年8月号 人・紀行 ─ 安徳建二・美智子 夫妻

鹿児島県・沖永良部島。その島で20年以上にわたり、子どもと母親、そして地域に寄り添い続けてきた夫婦がいる。NPO法人「心音(こころね)」理事長の安徳建二さんと美智子さん夫妻。発達障害や不登校の子どもたちを支え、放課後等デイサービス「サランセンター」、子どもの居場所「ダ・ヴィンチ」、さらに心を癒やす「スヌーズレンルーム」の整備へと活動を広げてきた。その歩みは、1組の夫婦による地域活動にとどまらない。島という小さな共同体から、日本の子ども支援のあり方そのものを問い直す挑戦でもある。
心のどこかに残り続けていた島
沖永良部と建二さんの縁は高校時代までさかのぼる。
昭和43年、高校3年生の春休み。18歳の建二さんは一人でリュックを背負い、南へ向かった。「与論島へ行きたかったんです。そして沖縄をこの目で見たかった」。当時の沖縄はまだ琉球政府の時代だった。島原からフェリーで大牟田へ、国鉄で鹿児島へ、そして船を乗り継ぎ28時間かけて沖永良部へ。今では想像できない長い旅だった。
初めて島に降り立った瞬間、不思議な感覚に包まれる。「懐かしいと思ったんですよ」。初めて来た場所なのに、どこか知っている風景だった。潮の匂い、ゆっくり流れる時間、隆起サンゴ礁の白い海岸線。島原で育った記憶と重なる風景がそこにあった。
この島が、やがて自分の人生そのものになることをそのときはまだ知らない。
建二さんは昭和25年4月、福岡県筑後市溝口に生まれた。船小屋温泉の近く、近年では『鬼滅の刃』ゆかりの地として知られる竈門神社がある地域だ。安徳家の源流はさらに山深い場所にあるという。
「うちのルーツは八女なんですよ」
八女市山内、さらにその奥の旧矢部村。父親から聞かされて育った話では、一族は平家の落人だったという。幼少期を柳川で過ごした後、小学2年生の時に長崎県島原市へ移り住む。「私にとっての故郷は島原ですね」。有明海を望み、背後には雲仙・普賢岳がそびえる町。海と山に抱かれたその風景が、後の人生の基層をつくっていく。
建二さんは先日、レンタカーを借り、眉山と普賢岳の間に整備された新しい道路を走ったという。「火口が真正面に見えるんです。昔歩いた登山道に道路ができていて、本当に感動しました」。半世紀を過ぎても、風景は記憶を更新し続けている。
昭和40年代後半、日本は高度経済成長の最後の勢いを保ち、列島全体が未来へ向かって加速していた。その流れの中で建二さんもまた社会へ飛び込んでいく。
大学卒業後の就職先はパワーショベルなどの販売・メンテナンスを担い、巨大な企業グループの一翼を担う存在だった。
「私が入社した頃は、まだ高度成長の勢いが残っていました」
入社当時の話をすると、少し少年のような表情になる。「ある日、課長から『韓国へ行くぞ』と言われましてね。朝から伊丹空港へパスポートだけ持って行ったんです」。海外出張だと思って胸を躍らせていたところ、課長は笑って言った。「お前ら、本当に外国へ行くと思ったのか」。そんな冗談が通用する時代だった。
いわゆるモーレツ社員の時代。仕事は生活そのものだった。系列会社への出向、異動、親会社への3年間の出向。全国を転勤しながら多くの現場と人間関係を経験していく。その最後の勤務地が鹿児島だった。この土地が、後の人生を決定的に変えることになる。
人生をやり直すために島へ
2004年10月。53歳で退職した建二さんは沖永良部島の空港に降り立った。新天地への期待よりも、「本当にここで生き直せるのか」という不安だった。
それでも迷いはなかったという。 「もう、とにかく場所を変えたかった。環境を変えたかった。それだけでした。形なんてどうでもよかったんですよ」
仕事も肩書も過去の人間関係も、一度すべて手放す。人生をゼロからやり直す覚悟だった。
島に知り合いはほとんどいない。仕事の保証もない。だからこそ新しい人生を築けるのではないかという思いがあった。
「島で生きるなら、まず島の人に受け入れてもらわなければならない」
その考えが、後に20年以上続く地域活動の原点となる。
島育ちの美智子さんは当時、児童福祉の仕事に深く関わっていた。保育士として現場に立ち、その後は役場で子育て支援や児童福祉を担当してきた経験があった。
「一番入りやすいのは子育ての分野だと思ったんです。子どもやお母さんの力になれる活動をしようと」
こうして子どもと保護者を支える心音を立ち上げる。しかし、島での出発は決して順風満帆ではなかった。
「最初の1年くらいは、なかなか島の輪の中に参加できない雰囲気を感じました」
閉ざされた共同体では、外から来た人間は簡単には信用されない。だからこそ、利益ではなく信頼を積み重ねることを選んだ。
日曜日になると公民館を借り、専門家を招いて子育て無料相談会を開く。子育ての悩みを聞き、お茶を飲みながら語り合う。困っている人がいれば一緒に考える。目立つ活動ではないが、そうした積み重ねが少しずつ地域との距離を縮めていった。
美智子さんは振り返る。
「沖永良部では、子どもが『普通』と言われる枠から少し外れただけで、『隠した方がいい』という空気がまだ残っていました」
発達障害という言葉も十分には浸透していない時代だった。 「うちの子は障害児じゃありません。」そう言って相談をためらう保護者も少なくなかった。
知識不足や偏見から、子どもの個性が否定される。その結果、学校へ行けなくなり、不登校や引きこもりへとつながってしまうケースを、夫妻は何度も見てきた。
「子どもを変えるより、お母さんの心が軽くなることが大事なんです」
美智子さんはそう話す。
母親が「この子はこの子でいい」と思えた瞬間、子どもの表情は変わる。家庭の空気が変わる。そして子ども自身が少しずつ自分らしさを取り戻していく。
支えるべきは、子どもだけではない。 子どもを支える母親であり、家族であり、地域全体なのだ。
その理念は20年を経た今も変わっていない。そして、この小さな島で始まった挑戦は、やがて全国から注目されるモデルへと成長していくことになる。
島が育んだ「受け入れる文化」
沖永良部島は、奄美群島の南西部に位置する人口約1万3000人の島である。温暖な気候と透明度の高い海に囲まれ、「花と鍾乳洞の島」として知られる。一方で、この島には自然の美しさだけでは語れない、独特の歴史が刻まれている。
沖永良部を語る時、外せないのが幕末の西郷隆盛だ。
西郷は1862年から約1年半、沖永良部島で過酷な牢生活を送りながらも、命をつないだ。その後、牢を出ると子どもたちを集めて学問を教え、人としての生き方を説いたという。
「西郷南洲翁は、掃除をしてから子どもたちに教えを説いたそうです。その教えが、この島には今もどこかで生きているように感じます」
島で育った美智子さんは幼い頃、日曜日の早朝から子どもたちは「南洲文庫」「南洲神社」を清掃し、南洲翁が遺した教えを学んでいたという。
中央から遠く離れた島だからこそ、多様な人を受け入れ、新しい価値を生み出してきた歴史がある。
「島は人との距離が近い反面、個々のプライバシーが保たれにくい面もあります」
小さな共同体では、うわさは瞬く間に広がる。昨日話したことが翌日には島中に伝わっていることも珍しくない。「最初の頃は人間不信になりました」。それでも踏みとどまった。
「この島でどうすれば生きられるかを考えよう」
そう気持ちが変わった時から、活動も変わり始めた。目立とうとしない。自分の正しさを主張しない。地域に必要とされることを、黙々と続ける。その積み重ねが、少しずつ人々の信頼へと変わっていった。
「安徳さんには裏がない」。そんな声が地域から聞かれるようになる。和泊町社会福祉協議会の会員にも迎えられ、子育て相談や福祉活動には行政からも協力が寄せられるようになった。しかし、その頃も運営は決して楽ではなかった。活動資金はほとんどない。助成金が採択されても、そのほとんどは事業費として消えていく。自分たちの生活費にはならない。
「イベント活動すると3000円くらいの謝金。それでも続けるしかありませんでした」(美智子さん)
相談会を開き、専門家を招き、子どもたちの学習支援を行う。日本財団や福祉医療機構をはじめとする助成制度にも挑戦し続けた。
「活動を続けるためには、お金ではなく信用を積み重ねるしかありませんでした」
20年を振り返る建二さんの言葉には、派手さはない。だが、その静かな歩みこそが、後に全国から視察が訪れる活動へとつながっていく土台になっていく。