食の道を極め、文化を紡ぐ─逆境を「運命」に変えた料亭主の半生 (後編)


2026年7月号 人・紀行 ─ 寺岡直彦さん 「日本料理 てら岡」店主(現会長)

(前号のあらすじ)昭和19年に満州で産声を上げ、戦後の混乱と高校不合格という挫折を経て15歳で板前修業に入った寺岡さんは、大阪での過酷な日々の中で「中途半端なら帰れ」という師の言葉に魂を揺さぶられ、一流への道を猛進する。しかし、長崎での極貧生活や理不尽な差別、さらには貿易商への転身など、幾度もの苦難に立たされる。持ち前の誠実さが手繰り寄せた人々の献身的な支えによって再起を果たし、昭和51年に念願の「てら岡」を開店させる。その後訪れたナイアガラの滝の雄大さに自らの小ささを痛感し、料理を単なる食事ではなく茶懐石の精神や古美術までをも融合させた「一期一会の総合芸術」へと高めていくことを決意し、さらなる高みを目指して突き進んでいく。

奇跡の命
原点としての「鞍山」

この「諦めない心」の根底には、幼少期の壮絶な記憶がある。平成元年、寺岡さんは二人の姉を連れて、自らの生誕地である満州の鞍山(あんざん)へ旅をした。一家が住んでいた製鉄所の社宅が今も残っているという噂を聞きつけたからである。

通訳を伴いタクシーでその場所へ向かうと、かつての社宅は高いポプラ並木と赤いレンガの塀に囲まれ、現在は軍事施設として使用されていた。守衛に断られ、一度は諦めかけたものの、裏門に守衛の姿がないのを見逃さなかった運転手の合図により、寺岡さんたちは敷地内へと駆け込んだ。

地図を頼りに、住んでいた建物をすぐに見つけ出した姉たちが「あそこに住んでいたのよ」と感激の声を上げる。寺岡さん自身に当時の記憶はない。しかし、目の前の建物を見た瞬間、身体が氷のように硬直した。間違いなくここが、自分の始まりの場所であるという強烈な確信が、身体中を揺さぶるような感動となって押し寄せた。

やがて兵隊に見つかり、慌てて逃げ出した一行。ほっと一息ついた時、長姉が突然「直彦、あなたをおんぶして日本まで帰ったんだ」と告げた。当時は北方の地で、親が子供をコウリャン畑に捨てざるを得ない悲惨な状況も少なくなかった。食料と引き換えに農家に売られた子供もいた中、姉は泣きながら、何度も何度も寺岡さんを背負って帰国したのだ。数百メートル、姉の鼓動を背中に感じながら歩いたその道程は、寺岡さんの命が「生かされた」ことの重みを、生涯忘れられない記憶として刻み込んだ。

この「生きていていてよかった」という根源的な感謝が、のちの数々の困難を乗り越える執念の源泉となっていったのである。

執念の「自社ビル1号」
一介の料理人が勝ち取った5億円の真剣勝負

昭和54年(1979)の初夏、福岡市南区にある九州がんセンターの長い廊下を、一人の男が足早に通り抜けていた。その男性は寺岡さん。「味處てら岡」を創業して4年、西中洲のわずか27坪の店が連日満席になる繁栄の裏で、寺岡さんは激しい「いらだち」を抱えていた。

「もっと広く、自分の力を十分に発揮できる店が欲しい」。その一念で探し当てたのが、渡辺通りにある117坪の駐車場だった。西中洲の店の13倍以上となる360坪の城を築く―。その夢に魅入られた寺岡さんの、命を懸けた「自社ビル建設」の幕が開いた。

しかし、土地の所有者は「売る意思は全くない」と、仲介業者を門前払いする。諦めきれない寺岡さんは、知人の伝てを頼り、自宅へ直接乗り込んだ。

「弁は立たないが、馬鹿がつくほど真剣だった」と本人が振り返る通り、寺岡さんは誠心誠意をぶつけた。だが、所有者の願いは「入院中の妻の好きなようにさせてやりたい」という一点にあった。ならば奥さんを説得するしかない。そう決意した寺岡さんは、毎日手作りの弁当をこしらえ、病院へ通い始めた。

一週間が過ぎたその日、病室を訪ねた寺岡さんに奥さんは告げた。

「寺岡さん、もう明日から来んでもいいですよ。さっき、あの土地はあなたに売って差し上げるように主人に話したところなんですよ」

嘘をつかず真面目に生きれば理解を得られる。その強い確信が寺岡さんの胸を突いた。

土地は手に入ったが、本当の試練はそこからだった。土地代と建設費を合わせた総額は5億円弱。アイカネジャパン時代にカジキマグロを台湾から週3回空輸で輸入、その実績をもとに十分返済できる自信はあった。しかし、若さと店の面積をいきなり10倍以上に拡張するのは銀行の理解を得るのは難しかった。窮地を救ったのは、積水ハウスの担当者の執念と、寺岡さんが茶懐石を教えていた縁で繋がった「生長の家」の信者だった。時の実力者だった参議院議員へ、そして議員から積水ハウスの田鍋健社長(当時)へと情熱のバトンが渡された。

大阪の本社社長室。寺岡さんは田鍋さんと対峙した。

「総額5億円というのは大変な金だぞ」
「私は命懸けで商売をしています。絶対にやり遂げて成功させて見せます」

一切視線をそらさず、己の生死を賭けて訴える若造の目に、田鍋さんは賭けた。田鍋さんは4億2000万円もの巨額な個人保証を申し出るという、前代未聞の決断を下したのだ。また、寺岡さんの情熱に惚れ込んだ田鍋さんは、「連帯保証人」を引き受けた上に建築資金も用立ててくれた。

建物は着工したが、今度は運転資金3000万円が足りない。旧知の銀行支店長からは「階段とは一歩ずつ上がるもんですよ」と説教混じりに融資を断られた。

オープンまで残り3週間。絶望の淵で寺岡さんが飛び込んだのは、取引のない地元の銀行だった。「身体を担保にします」。無茶苦茶な言い分に、当時の営業部長は呆れながらも、「この男が頭を下げておるんだ。うちが貸さんのなら、どこの銀行も貸さんだろう」と、その気迫を認めて融資を決定した。

昭和55年(1980)3月、ついに4階建ての自社ビルが完成した。完成に向かうビルを見ながら、寺岡さんは舞い上がるような喜びと、心臓が縮み上がるような不安の狭間で寝汗をかく夜を過ごした。

完成したビルには、当時としては画期的な巨大いけすを据えた。「イカを一年中活かしたのは私が初めて。失敗を繰り返しながら、ろ過装置を改善し水質管理を徹底して通年提供を可能にしました」。この技術革新が爆発的人気を呼び、夕方6時前には満席になるほど繁盛する。また、この際、大量に余ったイカの足を有効活用しようと試行錯誤して生まれたのが、看板商品となった塩辛「いかぢゅぽん」だ。

開店当日のセレモニー。協力者に感謝状を読み上げる寺岡さんの目は、涙でぐしゃぐしゃになり、文字が読めなくなった。悔しさ、うれしさ、そして支えてくれた人々の顔が走馬灯のように駆け巡る。「あの時は寺岡くんに賭けたんだ」。のちに田鍋さんが語ったこの言葉こそ、一途に、真面目に生き抜いた料理人が勝ち取った、何よりの勝利の証だった。


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