2026年6月号 人・紀行 ─ 寺岡直彦さん 「日本料理 てら岡」店主(現会長)

今年9月に創業50年という大きな節目を迎える「日本料理てら岡」。店主(現会長)の寺岡さんは、82歳にして今なお、幾多の荒波を乗り越えてきた者だけが持つ確固たる自信を漂わせている。
「中途半端なら、荷物をまとめて田舎へ帰れ」
寺岡さんの物語は、激動の昭和史とともに始まる。昭和19年(1944)4月3日、鉄の街として知られる旧満州の鞍山(現中国遼寧省)で産声を上げた。父は製鉄会社に勤める技術者であった。家族は両親と姉2人、兄1人の6人家族。戦況が悪化する中、昭和22年に父の故郷である熊本県玉名郡清里村(現・荒尾市)へと引き揚げた。中国からの引き揚げの記憶は、よちよち歩きの子供だった寺岡さんの心に深い影を落としている。「もし長姉が小さな身体で私を背負ってくれなかったら、私は残留孤児になっていたか、あるいは生きていなかったかもしれない」。命からがら辿り着いた故郷での生活は、決して楽なものではなかった。
小学校時代は、豊かな自然に囲まれて過ごした。冬になれば村中総出で「ウサギ追い」に興じ、校庭で父兄が作る「ウサギ飯」や豚汁を皆で囲む。そんな長閑な村を、行政区の再編という「分村」が引き裂いた。「昨日まで同じ村人として笑い合っていた友だちが、行政区の違いでバラバラになっていく。子供心に、それは非常に切なく、理不尽な光景として胸に刻まれた」。この体験が、寺岡さんの原風景となった。
実家は、大学出の父が数学教師に転身し、姉も教師という厳格な教育者一家であった。絵が得意で、将来は芸術の道を夢見ていた15歳の寺岡さんを待っていたのは、志望校である県立高校の不合格という最初の大きな挫折だった。定年退職した父の面子もあり、家計の事情で私立への進学も叶わない。「高校に行けない自分の存在そのものが忌まわしい」。周囲の優秀な家族に対する劣等感と、自分だけが取り残されたような孤独感に耐えきれず、彼は教科書と下着を風呂敷に詰め込み、逃げるように家を飛び出した。
大牟田の料亭での板前修業が始まったのは、麦畑にヒバリが鳴く5月のことだった。一度は連れ戻しに来た両親に対し、ススまみれで叱られている無様な姿を見られた自尊心が、彼をさらに遠くへと向かわせた。「俺は不運な星の下に生まれた」。その思いを抱えたまま、伝手を頼りに大阪へと向かう。
大阪・難波の料理屋「川富本店」での修業は、想像を絶する過酷なものだった。九州訛りを馬鹿にされ、実直すぎて融通の利かない性格を笑われる日々。やり場のない苛立ちを抱え、夜中の大阪城公園の芝生に寝転んで朝を迎えることもあった。そんな荒んだ彼を救い上げたのは、当時の調理長の峻烈な一言であった。
「お前、ここに何しに来たんや。この世界に入った以上は一流になれ。なれないなら商売人になれ。どっちにもなり切れん中途半端なら、荷物をまとめて田舎へ帰れ」
この一言が、彼の魂を揺さぶった。17歳の少年は、その日、頭の中から「高校進学」という未練をきれいに捨て去った。「一国一城の主になる」と固く誓い、自分を律するための日記を書き始めた。疲れ果ててペンが持てない夜も、「死力精励」という4文字だけは刻み続けた。
その後、修業の地を博多に移した寺岡さんに、父の危篤という報せが届く。病院で再会した父は、息子の手を弱々しく握り、「お前だけ学校にやれんで申し訳なかった」と涙を流して謝った。かつての恨みは消え、父子の絆を取り戻した夜、父は65歳でこの世を去った。
父の死という大きな悲しみを乗り越え、寺岡さんは心機一転、東京・銀座の料亭へと足を踏み入れる。激動の時代に翻弄されながらも、彼は「一流」への階段を1段ずつ、着実に登り始めていた。
恩人の情けと「美味求真」の原点
さらなる高みを目指して移った東京の銀座の料亭で、悲劇が襲う。料理人の命ともいえる指を怪我してしまったのだ。ひょう疽(そ)を患い、爪が剥がれ落ちるほどの重症。包丁を握れぬ者は給料も出ず、狭く汚い宿舎で不安に震える日々が続いた。「やはり自分には料理は向いていない。絵の道へ戻ろう」。絶望した19歳の寺岡さんは故郷へ帰る決心をするが、博多の先輩が呼び止めた。「もったいない。もう一軒だけ行け」。
先輩は自らの給料に匹敵する5000円という大金を餞別に握らせてくれた。その情けに突き動かされ、寺岡さんは長崎の一流料亭「花月」へと向かう。
長崎では、魚を捌く「向板(むこういた)」として腕を振るったが、そこでの修業もまた過酷だった。月給8000円のうち5000円を弟と妹の学費のために故郷の家族へ送り、つましい生活を送った。さらに追い打ちをかけたのが、当時の調理長の言葉だった。テストだと思い、精魂込めて炊き上げた「豚の足」。半年後、味の評価を問うた寺岡さんに返ってきたのは、「うちのワン公が喜んで食べていた」という冷酷な一言だった。
「板場」と蔑まれた時代の理不尽さに、悔し涙でまな板に包丁を叩きつけた夜もあった。しかし、ここで辞めれば負け犬になる。そのファイトが、彼を再び博多の修業道へと引き戻したのである。
その後、25歳で当時返還前の「外国」だった沖縄。復帰前の日米間交渉の後に開かれていた懇親会の場として使われていた、当時沖縄唯一の日本料理店「春駒」の調理長に抜擢される。昭和44年のことだ。食材調達が困難な環境下、日米の関係者やVIPを唸らせる料理を提供し続け、多額の報酬を得るまでになった。
だが、成功の裏には深い孤独があった。寂しさを紛らわすために酒や社交ダンス、クレー射撃に没頭し、2年の契約を終えて帰郷した時には、手元には一文も残っていなかったという。
福岡に戻り、多店舗展開していた料亭「阿さ乃」本店に料理長として迎えられる。27歳という若さだった。若さゆえ女将からの信頼は全幅とまでいかない。ある時、九州財界のトップ、九州電力の瓦林潔会長(当時)が寺岡さんの料理を食べた後に、女将に「独創的な料理だった。(寺岡さんを)大切にしなさいよ」と鶴の一声。それ以来、店からの信頼を得るようになった。
17歳の時から独立を決意していた寺岡さんは、32歳でついに独立を果たす。この頃、寺岡さんが求めたのは「技術の先にある精神性」だった。当時の料理界に蔓延していた、接客係の女性が客と酒を飲むような「バーかクラブ」のような風潮に、彼は強い疑問を抱いていた。
「調理人が精魂込めた料理を、最高の状態で食べてもらうためのサービスこそが本物である」
「阿さ乃」の女将の紹介で、自らの理想を具現化するために、寺岡さんは表千家の門を叩いた。天与庵老師のもとで3年半にわたり、お点前と茶懐石を徹底的に学んだのである。
茶懐石こそが日本料理の原点であると寺岡さんは説く。お茶を美味しく飲むための腹ごしらえとして発達したこの文化には、日本人の礼儀作法の粋が詰まっている。
現在も商売を度外視して開催する「茶懐石の会」は、寺岡さんが次世代に伝えたい文化継承の場だ。箸の上げ下げから椀の取り方まで厳格な指導も行う。
「手間をかけ、本格的な作法を重んじる茶懐石を続けているところは全国でも稀でしょう。これは総合芸術としての日本文化を残す私の使命なのです」
この「総合芸術」を支えるため、寺岡さんは古物商の免許を自ら持ち、毎月古物のオークションへ出向いて目利きを行う。店内には、徳川家康の直筆書状や、小伊万里の透かし鉢、犬養毅の書などが並ぶ。
かつて「板場風情」と蔑まれた悔しさを糧に、寺岡さんは料理を単なる食事から、道具も空間も一体となった一期一会の「芸術」へと高め続けている。
29歳の8月、当時皇太子だった天皇・皇后両陛下ご夫妻が佐賀国体にご臨席されることとなり、太宰府の歴史資料館にお立ち寄りになる際のお食事を、寺岡さんが調理長として担当することとなった。太宰府といえば菅原道真公の梅である。寺岡さんはお立ち寄りになったという思いを一層強く持っていただくため、寝る間も惜しんで梅づくしの献立を考え抜いた。