2026年5月号 人・紀行 ─ 南清貴(KIYO)さん

「人は、自分が食べたもので、自分を壊している」。そう語る南さんの言葉には、静かながらも抗いがたい説得力が宿っている。独自の身体論を持つ整体指導者として、かつて「伝説のレストラン」と呼ばれた「キヨズキッチン」のオーナーとして、また、フードプロデューサーとして歩んできた彼の軌跡は、一見すると華やかな転身の連続に見える。しかしその実、彼の人生は一貫して「表現」と「癒やし」の根源を問い直す旅そのものだった。KIYOさんのキャリアの出発点は、意外にも俳優だった。1970年代から80年代にかけ、舞台を中心に映画や「昼帯」のドラマなど、本名=芸名で数多くの作品に出演していた─
夢からの挫折、そして邂逅
KIYOさんの物語を紐解くには、まずその数奇な家系に触れなければならない。
昭和27年、秋田県で生まれた。
「父はベルトコンベアの設計技師で、当時は常務を務めていました。まだ石炭が主力だった時代、当時石炭が採れた秋田で父がすべてを設計し、現場に常駐して施工の指揮を執っていたんです。今の運送業界の礎となるような技術を父が担っていた、そんな時代でした。私が1歳の誕生日を迎える前に、東京へと戻りました」
しかし、一族の大元を辿ると、そこには「癒やし」という宿命的なキーワードが浮かび上がる。父方の先祖は、深刻な皮膚病に苦しむ妻を救いたい一心で全国を巡り、明治以前に登別で自ら温泉を掘り当てた。それが登別温泉の始まりの一つとなり、南家はそこで旅館を建てた。
「人を癒やす場を拓いた血筋というものが、私の中にも流れているのかもしれません」
1歳から東京・大田区で育ったKIYOさんの幼少期の夢は「横綱」だった。毎日四股を踏み、中学を出たら弟子入りするつもりだったが、実際に相撲部屋を見学した際、圧倒的な体格差を目の当たりにし、挫折を味わう。失意のまま高校に進学、「はっきり言ってデブでした。これじゃ女の子にもてない」と絶食に近い「間違ったダイエット」を始める。その後、高校3年生で右の上腕骨が骨髄から溶け出すという奇病に見舞われる。「過激なダイエットによる深刻な栄養障害でした」。絶望の中、救ってくれたのは国語の担任教師だった。「お前は劇作の才能がある」。差し入れられた白水社『世界演劇全集』を読み耽るうちに、KIYOさんは表現の世界に魅了されていった。
病床で演劇に目覚めたKIYOさんは、大学進学を目指した。しかし、1年目の入試は過酷だった。
「ギプスは取れたものの、まだ腕を吊っている状態。左利きだったので左手で答案を書きましたが、現代国語の長文記述などで時間が足りず、案の定落ちてしまいました。父に相談すると『1年くらい浪人して体を戻せばいい』と快諾してくれました。父はいつも、私がやりたいことを応援してくれたんです」
浪人生活の中で、運命的な出会いが訪れる。中学時代の友人の母─かつて銀座でバーを経営し、政財界や文化人に顔の広い女性だった─が、KIYOさんの志望大学の教授や、東京12チャンネル(現・テレビ東京)の有力プロデューサーと昵懇の間柄だったのだ。
「プロデューサーの方は『大学で勉強するより、早く現場に出た方がいい』と助言をくれたんです。その時、私にはもうお芝居しかないという覚悟がありました」
「演出を学びたい」という南さんの希望を聞いた教授は、即座に手筈を整えてくれた。そうして門を叩いたのが、小沢昭一、風間杜夫、大竹まことらを輩出した名門劇団「俳優小劇場(俳小)」だった。
「俳優としての一歩でしたが、本望はあくまで演出家。アトリエ公演で配役されながらも、すべての芝居で演出助手を務め、メモを取りながら舞台に立つ。難解なスタニスラフスキー・システムと格闘しながら、私は表現の本質を追い求めました」
演出の探究で出合った野口整体
理論と格闘する中で出会った野口晴哉(のぐち・はるちか 1911─1976)氏の「整体」が、演出における決定的な解決策となった。野口氏は後には野口整体と呼ばれ、多くの後進の指導者を育てた。
「舞台上で演じる人間が、台本にある自分のものではない言葉をどう生きるか。そのギャップを埋める示唆を僕は整体の中に見たんです。例えば、振り返るという一つの動作でも、構造に沿った『順』の動きか、無理な『逆』の動きかで印象は180度変わる。正しい動作を知ることは、生命を整えることです」
KIYOさんは、かつての日本文化に根付いていた「完成された所作」の重要性を説く。
「例えば、雑巾の絞り方一つでも、現代の多くの人は間違っています。正しい絞り方は、左手の小指と右手の人差し指を効かせ、内側に締めていく。これは剣道の絞りにも似た動きです。また、相撲や柔道の基本である『ナンバ』の動きもそうです。私は演出家として、身体の理を整体を通じて深く学んだのです」
しかし、表現の深淵を追う一方で、生活という現実が肩にのしかかり始める。
「娘が大きくなり、両親も年老いていく。芝居一筋で生きてきたけれど、これから先、どうやって家族を養っていけばいいのか。その時、ふと思い出したのが、劇場の楽屋での出来事でした」
役者時代、主役の俳優がぎっくり腰で倒れた際、整体の腕を頼りに呼び出されたことがあった。また、当時のテレビはフィルム撮影だったためその待ち時間、個室の楽屋を訪ねてくる大部屋俳優たちの腰痛や肩こりを、何十人も無償で癒やしてきた。
「プロとしての意識はまだありませんでしたが、畳敷きの楽屋で仲間を癒やしながら、自分にはこの道があるのではないかという自信が芽生えていました。22歳で整体に出会い、12年の修行を積んだ34歳の時。私はついに、整体のプロとして歩み出す決意を固めました」
「知人が一人もいない土地で勝負したい」と一家で千葉県市原市へ移住し、住所の国分寺台から取った「国分寺整体研究所」を構えた。「全国にある国分寺にあやかって日本全国に広めようと思いました」。最初に施術した初老の農夫を治したことがきっかけになって口コミで広がり1日に30人が詰めかけ繁盛を極めた。ここで農家の人々と接したことが運命を変える。
「農家の方が野菜を手土産に持ってきてくれた時『これは家族用だから農薬を使ってない。売り物とは別なんだ。安心して食べてくれ。』と言ったんです。衝撃でした。体を整えても、入れるものが毒であれば自分を壊してしまう。石油化学製品は、我々の体では消化・分解・吸収ができないんです」
日本初のオーガニックレストラン
1995年、代々木上原に日本初のオーガニックレストラン「キヨズキッチン」をオープン。バブル崩壊、震災、事件が続いた混沌の時代に、整体で貯めた私財をすべて投じた。
「オーナーシェフとして厨房に立ちました。かつて相撲取りを目指して『ちゃんこ』作りを経験していたことが、ここで生きたんです。しかし、私の本望は単なるレストラン経営ではなく、食料問題そのものに関わっていくことでした」