真の防災とは─自助・共助・公助のあり方を問う、地域おこし運動から防災指導に転じた人生


2024年12月号 人・紀行 ─ 木ノ下勝矢さん レスキュー・サポート九州 事務局長・理事

防災という言葉を聞かない日がないくらい、ここ数年の日本列島は自然災害に見舞われている。その度に多くの犠牲者、被災者が出てその被害の甚大さに言葉をなくしてしまう。人智を超えた自然の猛威の前に人間の無力さを感じるが、それでも救える命、被災者の生活はなかったろうか。そんな思いに駆られることしばしばだ。

「行政に頼らない、下請けにならない」精神

自助・共助・公助。これらの言葉も災害が起きた時によく語られるのだが、尊い犠牲から学んだ教訓が生かされているのか。専門家ではないので評価すること能わないが、少なくとも「自分の身は自分で守る」自助は身につけておきたいものだ。また、日ごろから地域の防災体制を知って自らも役割を担う共助については、コミュニティが消滅したと言われている都市部に住む者としては甚だ心もとない。公助に関しては政府や自治体がやっているセーフティネットがどれだけ機能しているのか、正直分からない。いずれにしても個々人が自助能力を身につけることが大前提ではないかと思うが、いざ想定外の災害に直面した時にどれだけ対応できるか、正直、自信が無い。この稿の主人公である木ノ下さんはおよそ30年間、この防災という簡単なようで難しいテーマに、実践的な取り組みを続けている。

団体の前身は、NPO法(特定非営利活動促進法)が98年12月に施行した翌年に設立した大分県第一号のNPO法人「豊前の国建設倶楽部」で、自身が理事長を務めていた。

「雨後の筍のようにできて、その後中央で予算を取って丸投げする中間支援的な法人が出てきました。これでは意味がないと5年ほど前に解散しました」

NPO法人解散はレアケースのようだ。変わらず任意の団体として地域の防災を精力的に指導して回っている。「行政に頼らない。行政の下請けになっていては本当の防災はできません」。

木ノ下さんは活動のために行政に一度も依頼したことがないという。それは、師匠とも言うべきある人物の「自助・自立」精神が背景にあるからだ。

その師匠とは、元大分県知事の平松守彦氏(1924~2016)。1980年から始まった大分県の「一村一品運動」の提唱者で、「ローカルにしてグローバル」という標語のもと、「全国・世界に通じる物を作る」という目標を掲げ、自主的な取り組みを尊重し、行政は技術支援やマーケティング等の側面支援に徹することにより、自主的に特産品を育てることができる人づくり・地域づくりと、付加価値の高い特産品を生産することによって、農林水産業の収益構造の改善を目指した。一村一品運動によって、シイタケ、カボス、ハウスミカン、豊後牛、関あじ、関さば、大分麦焼酎など、大分県発信で日本全国に通用するブランドを生み出した。特産品の品目は2001年時点で336にのぼり(うち、年間販売額が1億円以上の産品129品目、生産額は総額で1400億円に達している。(ウィキペディア)

「『おカネではないところで応援する』というのが平松さんでした。人脈と知恵は提供するから、あとは自力でやりなさいという考えです」

昭和58年(1983)、地域おこしのプロジェクト「一村一品運動」を進めていた平松知事が、新たに地域振興に貢献できる人材を育成しようと、「豊の国づくり塾」を始めた。木ノ下さんはその第一期生として入塾、翌年に16人の仲間とともに「豊の国 中津落ちこぼれ塾」を結成した。それが後に先述したNPO法人に発展する。塾の名称は、中津が輩出した福沢諭吉は、その先見性が頑迷な地元では受け入れられず、故郷を飛び出た経緯から「地元では受け入れられず落ちこぼれた福澤先生にあやかって、私たちも地元には受け入れられない新しく面白いことをやろうと」。
様々な面白い企画を実行したが、その中でも最大のものが昭和61年の「大分県対福岡県の水上大綱引き大会」だった。

かつて、福岡県の山国川流域の地域と、大分県中津市から宇佐市までの地域は小倉県と呼ばれ、一つの行政区域だった。廃藩置県によって、明治9年(1876)に、中央を流れる山国川を境にして大分県と福岡県に分断された。以来、隣り合わせでありながら交流のないまま、100年以上もの時が流れていた。

「当時は両岸に福岡県側と大分県側にそれぞれ5つの行政区域がありました。かつては同じ生活圏だったのに、互いに背中を向け合っていました。その区域を越えて山国川の流域連携をやろうと山国川をはさんで大分県と福岡県とで綱引きをして、負けた方は向こう1年間、勝った方の県名を名乗るというイベントの計画を立てました。行政区分は別々ですが、そのおかげで新聞、テレビなど情報発信力が倍になるのが魅力的でしたね。『県境をなくす』がスローガンでした」

県境を越えての大綱引きという前代未聞のイベント、しかも「すべての行政に頼んでいるとそれぞれの思惑とか規制があって実行できないから行政に一切頼らない」だけに様々なハードルが待ち受けていた。

2000人対2000人。それだけ大人数で引っ張り合うのを耐えるには長さ400メートル、直径10センチ、重さ2トンもの大網が必要だった。藁をロープに巻き付ける。大手繊維メーカーに提供をお願いするなどいろんなアイデアを実行するがなかなかうまくいかない。最終的には自分たちで200万円借り入れて製作した。ようやく綱のめどが立っても、建設省(現国土交通省)から「石ころ一つも動かしてはいけない」というクレームが入ったり、警察からは駐車場や警備の問題で呼び出されるなど行政の壁は高かったが、若い木ノ下さんたちの熱意で何とか乗り越えて実現にこぎ着けた。

当日。綱引きは川の中で寒い中一体どれくらいの人が集まるか不安だった。しかし、ふたを開けてみると、1万人以上の人が集まって大成功の裡に終わった。

噂を聞きつけた他県の町おこしグループから挑戦状が届き、綱を貸してほしいという依頼も殺到した。山口県、茨城県、北海道など全国を回った。また、海外への遠征、アメリカ・ロサンゼルスへ。大分県がロサンゼルスに「一村一品」のアンテナショップを開く際、来日していたトム・ブラッドレー市長に大綱引きの挑戦状を手渡し、実現した。日本からは副知事以下100人がロスに乗り込んだが、会場となったズーマビーチには2500人を超える市民が集まった。

転機

楽しみながら地域おこしをやっていた木ノ下さん。転機は突然、訪れた。

平成7年(1995)1月早朝、阪神・淡路大震災が発生。犠牲者は6434人で未曽有の被害をもたらした。市街地の火災、倒壊したビルや建物、横倒しになった高速道路の橋脚など筆者は当時、テレビにくぎ付けになった。

当時、地元の消防署員だった木ノ下さんは居ても立っても居られず、発災後わずか2週間後に仲間に呼びかけて50人で現地に入った。当時は災害ボランティアという言葉もなかった時代だ。炊き出しの救援物資や地元で放置されていた自転車を修理して持ち込んだ。大阪在住の知人からの情報で東灘区が困窮していると聞き、公民館、高校の校舎を転々と回り、大鍋を振舞い、被災住民を労った。

白菜などの野菜は地元の農家、味噌は地元メーカー、中には焼酎メーカーから2千本などあらゆるものが寄せられ、マイクロバス2台、4トントラック2台で乗り込んだ。1回目は1週間滞在、車中泊、テント泊で過ごした。その後も何度か支援に入った。そうした活動をやっていて痛感させられたことがあった。

「行政が全く機能していませんでした」

被災地のあるリーダーと知り合った。その人物は区長でもない普通の住民だった。


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