2024年10月号 人・紀行 ─ 15代 沈壽官さん
8月の盆明け。うだるような酷暑の中、車で鹿児島県日置市の美山(みやま)地区に向かった。この閑静な地区にある窯元「沈壽官」という名前は知っていたが、その家に代々伝わる薩摩焼については知識をほとんど持ち合わせていなかった。写真で見る限り、美しい白い色合いと繊細な紋様、丹念に施された上絵が特徴的で、てっきり磁器だと思い込んでいた自分の無知が恥ずかしくなる。
白薩摩誕生
薩摩焼は、世界的にも類を見ない白い陶器で、その象牙のような素地と、それを包み込む透明で微細な貫入(釉薬のひび割れ)が特徴だ。また、焼成時の変形や亀裂を恐れない造形技術や、焼成後の丹念な上絵(薩摩錦手)など、奇跡とも言える技術が400年以上にわたって受け継がれ、進化してきた。15代目当主の沈壽官さん(本名・大迫一輝、以下15代目)は、歴史の重圧や謂れなき差別などの苦難を経て、技術と芸術性を磨き続けている。現在は現役を続けながら、次世代への継承を模索している。
取材前に静かな敷地を散策。樹齢を感じさせる樹々の間をそよぐ風に暑さで火照った体が癒される。登り窯も見学、この窯から白薩摩が生み出される。
まずは、15代目から薩摩焼の歴史について話を訊くことにした。これを端折っては、話は進まない。
沈家は朝鮮では支配階級である「両班(やんばん)」だった。慶長3年(1598年)の豊臣秀吉の二度目の朝鮮出征(慶長の役)の帰国時、多くの朝鮮人技術者が連行され、その中に初代の当吉も含まれていた。初代は20歳の時、秀吉の朝鮮出兵に際して義勇軍の一員として金浦(きんぽ)を出発し、南原(なむうぉん)城で捕らえられ、そのまま故郷金浦の家族と会うこともなく、薩摩に連行され、そこで妻を娶り、土となった。
島津義弘によって連行された製陶、樟脳製造、養蜂、土木測量、医学、刺繍、瓦製造、木綿栽培などの朝鮮人技術者たちは、見知らぬ地で祖国を偲びながら、その技術を生きる糧として生きていかなければならなかった。
朝鮮はもともと階級制が強く、現代の韓国でも色濃く残っている。連行された朝鮮人たちはさまざまな階層の人々の集まりだった。
沈家は慶尚北道青松に本貫を置き、その一族は李朝四代世宗大王の昭憲王后をはじめ、領議政(国務総理)九人、左議政、右議政(副総理)などを輩出した名門。両班出身の初代がリーダーになるのは自然な流れだったのだろう。初代の朝鮮名は「沈讃」だったが、捕虜の辱めを恥じて、日本では幼名の当吉を名乗ったといわれている。
捕虜たちが最初に流れ着いたのは、串木野市の照島だった。その後、転々として7、8年経って、現在の地にたどり着いた。日本人から手厚い扱いを受けて、この地に根を張るようになった。
見知らぬ地で集団を生活させなければならないため、新しい支配者である島津家とのかかわり方が非常に重要だった。
薩摩藩は朝鮮人技術者たちを手厚くもてなし、士分を与え、門を構え、塀をめぐらすことを許したが、その姓を変えることを禁じ、言葉や習俗も朝鮮のそれを維持するよう命じる独特の統治システムを作った。
「他の藩では日本人と混住させて同化策をとりましたが、薩摩藩の面白いところは、元々住んでいた日本人を他所に移して朝鮮人だけの集落をつくったことです。朝鮮だけでなく、薩摩藩は藩内に中国、沖縄の居留区を作りました」
その目的は交易だった。各国と交易するために、それぞれの居留民を活用し、密貿易、薩摩から言えば藩貿易で収入を得ていた。ちなみに、この地からは終戦時に外務大臣を務めた東郷茂徳(1882─1950)を輩出している。
焼き物の仕事はそのような中で始まったと考えられる。
当時の島津家が求めていたのは茶道具の生産だった。当時、日本には白い焼き物を作るための白い土も、それを焼き上げる釉薬も存在しなかった。千利休が大成したわび茶が戦国大名の間で大流行する中で、朝鮮半島南部の茶碗を模した焼き物を作ることが、島津家の悲願でもあった。
しかし、朝鮮半島の焼き物と日本のわび茶の茶器では目的が異なるため、ゼロから創造するしかなかった。わび茶の禅の思想に合う器が求められた。千利休の高弟でもあった島津義弘は、朝鮮白磁に近いものを薩摩で創り出したかったのである。
原料の白い土は、藩がお触れを出して、指宿・池田湖近くの山川成川地区でようやく見つかった。ケイ酸塩鉱物の一種であるカオリナイトという粘土だ。片麻岩(へんまがん)が熱水によって風化すると白色の陶土になる。これが雨によって流されて粒子の細かい粘土となり、原料となる。
「日本には縄文土器という世界最古の陶器があったにもかかわらず、当時は焼き物の後進国でした」
そのため、朝鮮出兵で各藩が多くの陶工を朝鮮から連行した。鍋島藩の鍋島焼、筑前藩の上野(あがの)焼、唐津藩の唐津焼など、九州の焼き物は朝鮮から連行された陶工によって造られた。それぞれの陶工たちは、日本で朝鮮半島とは違う陶土、釉薬を相手に格闘しながら造り上げた。薩摩焼が完成するまでには実に17年の年月を要した。その苦労は想像を絶するものだっただろう。以来、沈家は代々、薩摩藩焼物製造細工人としての家系をたどり、三代目からは藩主より陶一の名を賜った。
陶工集団は近くにある藩営工場に通い作陶していた。「今で言えば、藩の公務員扱いでした」。彼らが作った白薩摩は藩の産品として売られてはいなかったようだ。初期には茶道具として作陶されていたが、江戸時代に入ると茶の文化が廃れ、陶器は主に賓客のもてなしや贈答用として江戸の上屋敷でしか使われなかった。「鶴丸城の発掘調査で白薩摩は出てきませんでした」。白薩摩は門外不出の薩摩藩の格式そのものといえるだろう。
ちなみに薩摩焼には白薩摩と黒薩摩がある。黒薩摩は「黒もん」と呼ばれ、火山灰が多く混じった鉄分含量が多い土などを用いるため、深みのある黒になる。黒薩摩はその頑丈さと素朴さのため、日常品として多く用いられた。イモ焼酎のお湯割りの容器である黒千代香(くろじょか)、ちょこの「そらきゅう」は黒薩摩だ。
中興の祖 12代「壽官」
沈家をはじめとした苗代川地区の陶工集団は、江戸時代の間、藩御用達の作陶活動を続けていたが、転機は明治4年(1871)に訪れた。
廃藩置県により、後ろ盾だった藩が消滅した。そこで元武家たちが「薩摩陶器会社」を設立し、既存の施設を利用して商売を始めたが、「武家の商法」ではうまくいかなかった。このままでは白薩摩がなくなる危機に直面した。その時、現れたのが15代目の曾祖父にあたる12代「壽官」だった。幕末期に藩営焼物工場の工長だった12代目は、その才能を高く評価されていた。明治6年(1873)、日本を代表してオーストリアのウィーン万博に、六フィート(約180㎝)の大花瓶一対を含む多くの作品群を発表し、絶賛を浴びた。以来、「SATSUMA サツマ」は日本陶器の代名詞となった。「焼くと縮みますから、焼く前は2メートルはあったと思います」。
当時の日本には工業という概念がなく、家内制手工業が主流だったため、海外に輸出できるものはなかった。そこで、当時の政府は焼き物に目をつけ、海外の洋食器として売り出そうとした。薩摩陶器もその生産に乗り出したが、西洋の食文化を知らなかったために売れなかった。その結果、莫大な借財を抱え、65人の職工を解雇せざるを得なかった。
焼き物しか知らない仲間たちの就職先は見つからず、再び白薩摩は危機を迎えた。
明治8年(1875)、辞表を提出した12代目は、65人を集めて現在の地に「玉光山陶器製造所」を立ち上げた。第二の創業期を迎え、意気に感じた陶工たちが力を合わせて盛り上げていった。東京・新橋に支店を開設し、鹿児島から送られたものに絵付けし、開通したばかりの鉄道で横浜に輸送し、外国商館に卸して横浜港から海を渡って海外に輸出されていった。その後も博覧会で受賞し、ますます高名になった「SATSUMA」は、オリエンタリズムブームもあった欧米の富裕層の間で高値で取引された。
「当時の博覧会では展示会の意味もあって即売できたようで、白薩摩のフィギュア100体を送ったという記録が帳面に残っています。12代目は欧米の嗜好に合わせることなく、白薩摩の基本を貫いた。その作陶姿勢が希少価値を生み、イギリスの貴族が高値で買えなかったという逸話も残っています」
白薩摩の中興の祖である12代目の活躍で儲けに儲け、家の中には現金があふれかえっていたとされる。
明治39年(1906)、12代目が亡くなった後を継いだのは、弱冠17歳の13代目だった。しかし、後見人だった親戚が金山開発など様々な投資に莫大な金を注ぎ、財産を散財してしまった。頭脳明晰だった13代目は京都帝国大学に進学し、現在のキャリア官僚試験にあたる高等文官試験に合格した。しかし、朝鮮の血筋が出世には不利だと諦め、国家公務員にはならず、帰郷した。
「元々学者肌の人だったようです。旧苗代川村の村議会議長を長く務めました。しかし、戦争が拡大する中で職人たちは朝鮮名では居づらくなり、次々と鹿児島市に移り、日本名に改名していったようです」
明治43年(1910)の日韓併合以来、創氏改名など朝鮮国の日本化が進む中で、偏見や差別という厳しい時代だったことは想像に難くない。最終的に残った陶工はわずかだったという。それでも13代目は尊敬する12代目の沈壽官をあえて襲名し、逆風の中で家業を守り続けた。
続きは本誌にて…フォーNET読者の会(年間購読ほか会員特典あり)
コメントを残す