2024年8月号 情熱九州 vol.42 ─ マイリズム研究所 所長 Sakuraさん
これを「仏縁」というのだろうか。94歳で亡くなった方の跡取りのお嫁さんを偶然、取材することになった。というか、数年前に約束していたのを失念していたのだが、故人の引き合わせで取材することができた。
最後のお別れと遺言
原裕一郎さんには、小誌の令和2年(2020)10月号の「人・紀行」に登場してもらった。テーマは原さんが独自に考案した「素立(そりゅう)学」。この学問は、「人の素質は理論的に8640万パターンに分類が可能だが、日常生活では、分類は簡単なほど良く、12分類で対応できるという。素立学は人の素質を分析する学問で、宇宙原理や自然の法則と人間の関りを基本に、人間の持つ特性を分類、統計化して人間の潜在的で先天的な領域まで踏み込んだ、人間の素質を発見するための学問」(小誌記事より)。
当時92歳の原さんは、バスケットボールで鍛えられたのだろう、その年齢を全く感じさせない元気な人だった。なぜその学問に行き着いたのか、生い立ちからサラリーマン時代、創業などを辿って書いた。その時に紹介されたのが、嫁のSakuraさんだった。面白い取り組みをやっているので取材してくれと原さん。快諾して電話番号を交換した。
それから四年。電話が入っていた。番号の名前に記憶がない。留守番電話を聞くと、「義父が入院した」という用件。半年ほど前にある会合で会った時には元気そうだったのだが…ようやく、思い出した。すぐにかけ直すと、入院した原さんの状態はあまりよくないようだ。4年前の約束を果たそうと取材日を決めて電話を切った。
ところが、その2週間後、訃報が届いた。仕事が佳境に入っていて身動きができない。通夜も葬儀も出られなかった。お墓の場所を尋ねて墓参りに行こうかと思っていた。それから数日後、約束した日に取材でSakuraさんの自宅を訪れると、仏壇があって納骨前のお骨も供えられていた。線香、蝋燭に火を灯し、鈴を鳴らして手を合わせることができた。
こうして、原さんの遺言とも言うべき取材が始まった。
嫁いで4年。義父と過ごした時間は短い間になってしまったが「とにかく自由な義父でした。よその高齢者の方と比べると、異常なほどに元気な人でしたね。とにかく自分でやれることは自分でやるという信念を持っていました」と振り返る。
そのSakuraさんは、元々プロのパーカッショニスト(パーカッション演者)で現役。しかし、現在は独自に開発したゴルフスイング「プリクタ分析」による指導などリズムを研究してスポーツ全般への普及活動に注力している。
プリクタ分析については後述するが、分かりやすく言えば、動作のリズムを独自に開発した分析法で修正し、「数値化」するだけでなく「可視化」「可聴化」することにより、ベストパフォーマンスのスポーツのパフォーマンス再現性を向上させようというもの。これだけの説明では読者に分かりづらいだろうし、筆者自体もなかなか理解できない。詳しく訊いていくことにするが、Sakuraさんがなぜその道に入ったのか。その軌跡から辿っていこう。
ラテンの世界に憧れて
昭和55年(1980)、都京東京都多摩市で3人兄姉の末っ子として生まれる。東京郊外のベッドタウン開発のはしり「多摩ニュータウン」の団地に一家が引っ越した時はまだ造成中だった。「変わった教育方針だったですね。小遣いが成績で決まるんです」。訊けば、何とも複雑な計算式。この計算式では、一番下のSakuraさんが上の兄姉の小遣い額を上回ることもしばしばで、「今思うと、勘違いを生む教育だったと。だって人の価値を金額で評価しますから、私が兄、姉より小遣いが上だと見下していたんですね」。家族内で関係がぎくしゃくしていった。
自身も親にとっての正解を常に気にしながら過ごす。自分の意思ではない生き方に次第に窮屈に思うようになった。高校は地元の都立の進学校に入学する。2年生の時に、人生が変わるきっかけと出合った。それはラテン音楽だった。
たまたま知ったJICA(国際協力機構)のラテン文化を学ぶイベントに参加、初めてラテン音楽を聴いた。その瞬間、電気が全身に走って、涙が止まらなかった。「ラテン音楽をやる」と決めた。ラテンと言えば、サルサ、オルケスタ・デ・ラ・ルスなど陽気な音楽が特徴。ラテン音楽をやるためには、JICAに入った方が近道だと考える。亜熱帯の農業を勉強すれば農業指導として南米の国に派遣されるかもしれない―思い立ったら即行動するSakuraさんは、遠い沖縄の琉球大学農学部に進学する。
かつて南米への移民が多かった沖縄。さぞラテン文化も根付いていることだろうと期待したが、肩透かしを食った。唯一、「ディアマンテス」というラテンバンドが人気を博していた。大学2年生の時、そこから枝分かれして結成されたサルサのバンドにボーカルとダンスで加入する。中高の吹奏楽部で打楽器をやっていたSakuraさんがある日、遊びで太鼓を叩いていると、メンバーに見られて太鼓のパーツパートに回された。その後、バンドではドラム。ティンバレス、ベース、ボーカル、ギターとメンバーが抜ける度に穴を埋めていく。気がつけば、憧れていたラテン音楽をやることができていた。JICAに入るよりこのバンドでプロになればいいと割り切った。
その後、バンドはプロになって、本場のキューバのラテンバンド「ロスナランホス」の来日公演の前座を務めた縁で招聘されて翌年にキューバに渡ってツアーで演奏する。高校時代に抱いた夢を実現できた。
普段はバンド「カチンバ」で観光客向けの演奏活動。「独特の沖縄の言葉・音楽とラテンを融合させていました。世界唯一のジャンルだったと思います」。大学を卒業して28歳までプロバンドのメンバーとして活動して、ファンと結婚する。夫はホテル支配人で福岡に単身赴任することになり、数年は別居生活を送る。3.11をきっかけにSakuraさんが福岡に移ることになった。「何かあった時に別々ではあまりにも悲しいと思って」。
結婚を機にバンドをやめて、始めたのがリズム畑だった。
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