医療界の革命児・徳田虎雄の横顔を語る─「命だけは平等だ」理念を追求した病院


2024年10月号 聞き書きシリーズ ─ 福沢峰洋氏 地域政党 薩摩志士の会 会長・創設者

生命だけは平等だ─7月10日、日本の病院王と呼ばれながら国内に大規模な医療機関・医療事業グループを次々と築いた徳田虎雄氏が亡くなった。享年86歳。医療改革を掲げ衆議院議員としても政治に関わった。理念を実現するために手段を選ばなかったその行動力は、ある時は激しい非難を浴びた。その徳田氏にかつて仕えた福沢氏がその横顔を語る。

徳田虎雄氏プロフイール

昭和13年(1938)、鹿児島県徳之島町出身。大阪大学医学部卒業。昭和48年(1973)に大阪府に最初の病院を開き、医療法人を立ち上げて全国にグループを広げた。 平成2年(90)衆院選に鹿児島県の旧奄美群島区から出馬し初当選、通算4期務めた。 平成14年(2002)にALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症し療養を続けていた。令和6年(2024)7月10日、86歳で他界。

福沢氏プロフイール

昭和27年(1952)、鹿児島県奄美大島生まれ。鹿児島県立大島高校卒業後、福岡大学中退。一般企業勤務を経て医療法人入職。その後、衆議院議員秘書を経験し現在は地域政党 薩摩志士の会の会長、日本税制改革協議会(本部・東京)鹿児島代表、拉致被害者奪還薩摩有志の会、事務局、(一般社団)鹿児島県起業家協会理事などを務める。

来いと言ったら来い

私は奄美大島で生まれ育ち、福岡大学に進学、中退後は東京の食品関係の企業でサラリーマンとして働いていました。徳田理事長に初めてお会いしたのは、昭和55年(1980)、私が28歳の時でした。私の父は地元の議員を務めていて以前から「徳田先生にあいさつしておけ」と言われていました。奄美出身者の集まり「関東奄美会」で理事長から「君は福沢議員の息子らしいな」と声を掛けられました。理事長は、昭和48年(1973)に独立開院、2年後に医療法人徳洲会を設立、お会いした頃は札幌に開院して全国に10カ所ほど展開していた時期で、お名前だけは知っていました。その時、いきなり「徳洲会に来い」と言われ、面食らった私は即答できず「考えさせてください」と返事を保留しました。初めて会っていきなり勧誘するとは。理事長らしいなと懐かしく思い出します。

1年後に同じ会合でお会いした時、当時新婚の私の顔を見て「来いと言ったら来い。君の机を準備させるから、明日から来い」と言われて、有無も言わさず徳洲会に入ることになりました。理事長は全国に病院を作ると豪語していて、「君たちのようなボンクラを集めて東大の連中とケンカするんだ」と息巻いていました。正直、その時私は「この人は狂っている。傍にいては危ない」と真剣に悩みました。配属は赤坂の山王グランドビルにあった東京本部でした。

私は病院進出の担当で土地探しから建設までを手掛けることになります。想像を絶する職場でした。いい意味で先生の人使いは荒かったですね。

昭和58年(1983)、医療改革のためには政治を変えないといけないと、理事長は国政選挙に初めて出馬します。奄美群島選挙区(当時 現鹿児島第2区)では保岡興治氏(故人 元法相)と島を二分する激しい選挙戦を繰り広げて、「保徳戦争」とも言われました。この時は私一人だけ選挙区に入って手伝いました。

昭和61年(1986)の2回目の選挙の時、先生から「羽田まで送れ」という指示があり、車を運転して空港に着いて駐車場に停めて先生の所に行くと、「君、これから一緒に鹿児島に行くぞ」と突然言われ、そのまま鹿児島に同行しました。鹿児島に着くと、「おい、君は奄美に渡って2年間、選挙活動をやれ」と言われて、そのまま島で活動することになりました。

最初にやったのは、職員の住民票を移す作業です。徳洲会の選挙は選挙が始まると一部の職員が住民票を移して投票します。中には実際に家族帯同で移ってきて活動する職員もいました。私は先生から指示を受けて「若虎会」という青年部を立ち上げます。当時、名瀬市(現奄美市)市長選挙があり、現職市長の対立候補として新人候補を擁立することになり、新人候補が当選します。その勢いで先生の選挙戦に突入しました。

対立陣営も必死で現金をばらまいていました。こちらも負けじと現金を用意、恐らくこの時使ったお金は30億円は下らなかったでしょう。徳之島は闘牛で有名ですが、選挙を巡って賭博も開かれていました。主催者の票読みがかなり正確だったのには驚きましたね(笑)。青年部の職員は私1人であとは地元でヤンチャやっていた若者で組織していました。

身代わり逮捕

彼らには身代わり投票させたるなど無茶苦茶なことをやりました。選挙は敗北し、その後陣営のメンバーが次々と逮捕され、その数は23人にも上りました。青年部にも捜査の手が伸びそうだったので、彼らを沖縄に逃がしました。しかし、逮捕者続出の情報がどんどん入ってきます。そこで私だけ単身で奄美に帰りました。事務所に行くと、顧問弁護士、陣営幹部が待っていました。情報を分析すると、「相手陣営は田中角栄の派閥に所属しているから、これは理事長逮捕まで視野に入れている。これは誰かが犠牲になって止めないと」という話が出ている時に運よくちょうど私が帰ってきたのです。

「私が明日、警察に行って止めてきます」

出頭前夜。いろんな議員さんから「福沢君、僕の名前は出さないで」とくぎを刺されました。そのために出頭するのですから、苦笑いするしかありません。

当日は夕方4時に出頭しました。警察としては目的は理事長ですから、あの手この手のからめ手で攻めてきます。私が取り調べにあたって作ったシナリオは、地元の企業の社長さんから私が1500万円借りて、それを配ったというものです。相手の社長さんからは偽の借用書も書いて預かってもらっていました。警察もそこは見抜いていて、相手の社長さんに電話して「虚偽だったらあなたも同罪」と脅されてあっけなく白状してしまいました。

「すべての責任は僕にあるので、何でも訊いてくれ。何でもしゃべるから。その代わり、これで捜査を打ち切ること。それが条件だ」

6時間後に私に対する逮捕状が執行されました。心底ホッとしました。「これで先生を守ることができた」と。上手く切り抜けられたのは、理事長の隠れファンは警察にもいたからです。徳之島に開院したばかりで徳洲会の離島医療に共鳴する人が警察にたくさんいました。出頭する前に父親に電話すると、「お前にはそれくらいしかできないだろうから、行ってこい」と激励されました(笑)。

51日間、拘束されましたが、安心していました。検察の調べでは、腰縄つけられて徳之島まで渡り現金を渡した場所を実況見分がありました。起訴されて公判を経て、懲役8カ月執行猶予4年の判決が下されました。「自分の人生を賭けてでも先生を守らないといけない」と覚悟していましたから、刑が確定した時は心底、ホッとしたものです。

それにしても当時の奄美の選挙戦はすごかったと思います。ハマコーこと浜田幸一先生の側近だったある地方議員先生は、徳田先生の理念に共鳴していて、「自分もハマコーの選挙ではかなり汚いこともやってきたから、選挙を伝わせてください」と奄美に乗り込んできました。島に着いて早速ビラを配っていると、相手陣営のチンピラに捕まり「よそ者が何しにきたんだ。帰れ、殺すぞ」と脅されて、「福沢君、ここでの選挙は人間がやる選挙じゃない」とすごすごと帰っていかれました。


続きは本誌にて…フォーNET読者の会(年間購読ほか会員特典あり)


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

PAGE TOP