パレスチナ解放運動に身を投じる人生─オーガニック推進で生産者と消費者のかけ橋に


2024年10月号 そこが聞きたい! インタビュー

「オーガニック&産直食材で生産者と消費者を結ぶ」ことで日本の農業、社会を変えるという理念で事業を展開している吉田さんのもう一つの顔は、パレスチナ解放運動家だ。話はオーガニックからパレスチナ問題へと展開した。

吉田登志夫氏 natural naturalグループ会長 福岡パレスチナの会代表

昭和26年(1951)、福岡市生まれ。福岡商業高校(現福翔高校)卒業。昭和49年(1974)西南学院大学生活協同組合学生理事。昭和57年(1982)パレスチナ現地支援活動に参加。平成2年(90)グリーンコープ北ブロック生協連合専務理事、グリーンコープ生協連合常務理事。平成4年(92)生協を退職し、ワーカーズ「産直ショップ夢広場」を設立。

地域内需給を目指して

―現在の事業の状況から聞かせください。

吉田 グループでオーガニック宅配「九州産直クラブ」、オーガニックスーパー「natural natural」を8店舗運営する会社のほか、あか牛飼育の牧場、乳製品の加工工場、オーガニック商品の輸入卸、不動産、そして、イギリスの現地会社の7社あります。それぞれが小さな会社なので、資金や人材を共有してグループ運営しています。このほか、神戸・横浜でもオーガニック店舗を運営しています。

―扱う商品は基本的に無農薬・有機栽培のものですが?

吉田 政府のオーガニック認証にはこだわっていません。というのも、果物はどうしても一部農薬を使わざるを得ないものもありますし、減農薬など基本的にオーガニックに近い志向であれば問題ないとしています。ただ、化学肥料や化学調味料は一切使用しないという約束事はあります。同じ方向を向いた生産者であれば取引をお願いしています。

―昭和49年(1974)に西南大生協の学生理事として、地域生協設立運動に参画していますね。

吉田 僕が初期に作ろうとした生協運動は、それぞれの地域(福岡市であれば東西南北)で自己決定権を持つ小さな単位の自立経営の独立した自治協同組合組織があり、それが横に連なって事業が連合するという考え方でした。しかし、次第に資本の論理に組み入れられて規模拡大を追求してゆき、単一巨大化しました。その結果、福岡県では10組織くらいあった地域独立生協が合併してしまいました。そうなると、地域で消費者と生産者の顔が見える結びつきが壊れて、地域主権も崩れ、経済効率を最優先させてしまいます、これでは地域自治の理念から逸脱してしまうということで、方針転換が不可能になってしまった生協を辞めて、規模が小さい生産者が小さな地域の中で消費者と結びつく産直運動を作り直そうと産直クラブを始めました。

巨大化した生協から切られた生産者などが商品を直で卸してくれました。生協の合併が進行すると経済効率を理由に小さな生産者がはじき出されてしまう例が多く見られ、卵や野菜、豆腐、パンなど切られた生産者が産直クラブに集まってきました。顧客開拓は戸別訪問から始めましたね。大変だったのは、会員が少なくても豆腐などは生産ワンロットで仕入れますから、どうしても売り残ってしまいました。豚も1頭ごと買いますから、これも売れ残ります。毎週末は豆腐と豚肉がスタッフの食事になっていましたね(笑)。会員勧誘にはやはり品質を前面に訴えていました。大規模化するとどうしても全体の質が低下してしまいます。誰が作っているのか、どうやって作っているのか分からない野菜を流通させてしまいます。消費者の中にはそれを不安、不満に思っている人もいますから、そうした人たちには「うちは2、3割高いですよ」と説明して納得してもらっています。放牧して育った豚や手作り加工品など小ロットの生産で手間ひまかけてますからどうしても高くなります。

―農業の衰退の背景の一つに生活するための収入が足りないということがあると思います。

吉田 大量生産・大量消費の大規模流通の中では、無農薬で当たり前の農業をやろうとする生産者は出荷先がなくなってきています。農業は地域内需給が基本ではないでしょうか。その地域で足りないものは外から補充しますが、基本はその地域でできたものをその地域で消費する。そうしないと、社会・暮らしは安定しませんし、農業生産者の収入も安定しません。現在の日本の食糧自給率は36%なのに、政府は「中国の脅威」として「台湾有事」を盛んに喧伝していますが、実際に戦争が起きたら、国民の7割は飢えてしまいます。食糧基地はすぐにはできません。食糧自給をやらずに、軍備増強だけが先走っているのはあまりにも愚かです。平和のためにはまずは、地域内の農業を自立させることが先決です。政府は自国農業生産物を一般の消費財としか考えていません。

正邪の逆転

―ところで、高校時代から学生運動に入ったそうですね。

吉田 高校では生徒会長をやっていましたので、学生運動の人たちとの交流はありました。当時はべ平連(ベトナムに平和を! 市民連合)など市民運動や学生運動はまだ激しい頃でした。ベトナム戦争が起きた頃で、日本から米軍の爆撃機がベトナムに飛んでいました。佐世保港への米軍空母エンタープライズ入港反対闘争で全学連のデモ隊に初めて参加しました。多感な高校生の時期で、日本からベトナムに爆撃攻撃に行くのはどうしても許せないという気持ちでした。

―この会長室にはキューバ革命の英雄「チェ・ゲバラ」の大きなポスターが貼ってありますね。

吉田 ゲバラの、キューバだけで革命を終わらせず人民が抑圧されている他の国でも革命運動に出ていったところが好きですね。キューバ革命が成功し、盟友のカストロが首相に就任後、ゲバラは首相の特使として各国を歴訪、日本にも外務大臣として訪れています。取り立てて崇敬しているわけではないのですが、ゲバラの顔を見ていると気分がいいですね。

―西南学院大学に進学しましたね。

吉田 入学はしましたが、毎日学生運動でビラ配りをやっていて講義にはほとんど出ませんでした。なんでもありの時代でしたね。東京では機動隊と衝突したこともありました。成田空港の三里塚闘争にも参加しました。そんな時代で、「学生運動するのはフツー」という風潮もありました。

―水俣病事件では患者のチッソ本社座り込み交渉闘争も参加していますね。

吉田 水俣には何度も通いました。福岡では「水俣病を告発する会」に参加して患者さんの後ろをついて回ってました。ここらが今の産直クラブ/natural natural運動の原点ですね。

―パレスチナ解放運動にも参加したとか。

吉田 現在、「福岡パレスチナの会」代表を務めていて、昨年10月からのイスラエルによるガザ地区攻撃でにわかに忙しくなって、毎週金曜夜に天神でスタンディングもやっています。初めてパレスチナを訪れたのは1982年でしたから、かれこれ40年以上も関わっています。

―パレスチナ問題は日本人にはなかなか分かりにくい面もあります。

吉田 よくユダヤ教・キリスト教・イスラム教の聖地「エルサレム」を巡る争いで宗教問題が根底にあると言われますが、違います。4000年前から2000年前まではエルサレムにはユダヤ王国があってユダヤ教が興隆しました。2000年前にローマが入ってきてユダヤ王国が滅亡し、住民のほとんどがキリスト教に改宗します。その後、イスラム教が入ってき人々はイスラムに改宗しました。それぞれの時代で人々が大移動して入れ替わったわけでなく、そこに住んでいる人が宗旨替えしたのであって、キリスト教徒パレスチナ人、イスラム教徒パレスチナ人、ユダヤ教徒パレスチナ人などいろんな宗教のパレスチナ人が歴史的に共存していました。

そこに1947年、国連がパレスチナにイスラエル国家を造り、パレスチナ国家と2分割する決議しました。第2次世界大戦後、ヨーロッパで25万人のユダヤ難民が発生します。そのユダヤ難民のための国家建設が、最初はアルゼンチン・ウガンダなど広い土地で検討されます。しかし、最終的には「旧約聖書でユダヤ人に約束された地であると書かれたパレスチナの地にユダヤ国家を造ろう」という「シオニズム運動」が起こります。ユダヤ人を差別、民族的に迫害した罪をひけめに思っていたヨーロッパ各国がそれを後押ししました。

―パレスチナ人、ユダヤ人は最初は仲良く住んでいたようですね。

吉田 2000年間も同じ地に住んでいたんですから当然です。

―それがなぜ、血で血を洗うような争いになったんでしょうか?


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