「従う」から「判断」の時代へ─報道のあり方に一石投じる 安定したポストをなげうって独立した理由


2024年8月号 人・紀行 ─ 浜崎正樹さん 元民放アナウンサー 合同会社代表社員

ここ30年来、次々と経済・経営用語の外来語が入ってきている。夥しい外来語がそのまま普通に英語で使われている。古くはリストラ、ステークホルダー、スキーム、コアコンピタンス、アジェンダなど思いつくままに挙げてみると、気がつけば外来語が頻繁に使われていることに愕然とする。

職業倫理

先達がかつて外来語を苦心して翻訳し、押し寄せる西洋文明を懸命に土着化させてきたのに対して、今や翻訳もせずに安易に使われている。いや、翻訳は一応されている。リストラはリストラクチャリングの和製英語で「組織・事業の再構築」、ステークホルダーは「従業員、取引先、株主などの利害関係者」、スキームは「事業計画」、コアコンピタンスは「競合他社を圧倒的に上まわるレベルの能力」、アジェンダは「計画、予定表」という意味。日本語を使えばいいところをわざわざ英語を使っているのは、なぜなのだろうか。

明治時代以来の日本人の西洋コンプレックスに加えて、敗戦後アメリカに対する従属意識が根付いてしまったからではないだろうか。そうしたコンプレックスの裏返しで西洋、つまりアメリカのものまねをすることで時代の先端を走っていると勘違いしている日本人が多いのだろう。しかし、白か黒かの二元論のアメリカの経営・経済理論を、グレー部分を残す多様性の日本にそのまま当てはめても、どこかに歪が生じるのは、当然ではないだろうか。

コンプライアンスという言葉もよく使われている。日本語に直せば、「法令順守」。法令を守るのは当然なのだが、なぜか、最近の経営でことさら重視されている。トヨタをはじめとした大企業や官公庁の不正や隠ぺいが明るみになる度に幹部がマニュアル通りに頭を下げるシーンを見ない日はない。

法令を遵守できない根底には、職業倫理の希薄化があるとしか思えない。職業倫理とは、それぞれの職業の良心を守る自己規律だと言えよう。食品会社であれば、体に悪いものを作らず売らない、建設会社であれば適正な工事代で出来る範囲で最高の技術をもって施工するなど、従事する者1人ひとりが暗黙の了解として身につけていなければならないものだ。ところが、企業などの集団、組織による不祥事は後を絶たない。コンプライアンスとは、「分からなければそれでいい」と解釈されているのではないかと訝りたくもなる。

つまり、組織の論理が職業倫理を駆逐してしまっているのではないか。「組織員は組織の利益を損なうことをやらない」という不文律がそうした不正を生んでいる元凶ではないか。恐らく不正発覚は勇気をもった内部の人間の告発によるものだと推察される。こうした内部の告発者を守る公益通報者保護法があるが、やはり「裏切者」として何らかの不利益や制裁を受けているケースも多いようだ。職業倫理よりも組織の利益が優先されている現実では、コンプライアンスなどは画餅にしか過ぎない。

ジャーナリストの職業倫理とは、「真実を追求し、客観的かつ公正な報道をする」「情報の正確性と信頼性を重視する」「プライバシーを尊重し、偏見を持った報道をしない」。しかし、現実にその職業倫理が発揮できているかどうか。最近の報道姿勢を見ていて首をかしげたくなる。この稿の主人公、浜崎さんは地方民放のアナウンス部長というポストを投げ打って昨年、約30年間務めた会社を退職して独立。現在は『なんぼかイイ世の中に。“従う”から“判断”の時代へ』を旗印に、ユーチューブチャンネル『ハマちゃんねる』で社会問題に鋭く切り込むなど独自のスタンスで情報を発信し続けている。

ところで、浜崎さんに初めて会った気がしない。それはそうだろう。FBS(福岡放送)の看板アナウンサーとしてテレビで幾度か目にした人が目の前にいるのだから。筆者がよく覚えているのは、同局の『ナイトシャッフル』(95~06)時代の浜崎さんだ。ローカルタレントの山本カヨさんと元プロ野球選手の今井雄太郎さんに挟まれた当時若手の浜崎アナが印象に残っている。その人物が目の前にいる。しゃべり方は当時のまま。さすがに少し歳を取った感じはするが、『ナイトシャッフル』時代の明るく元気がいいキャラクターはそのままで何となく嬉しくなった。

その浜崎さんは1000万円を超える年収を捨ててまでして、なぜ独立したのだろうか。

繰り上げという幸運

昭和47年(1972)、長野県松本市で2人兄弟の長男として生まれる。父は大手住宅メーカーのサラリーマンで事業所開拓担当だったため、全国を転々とし、茨城、群馬、熊本、長野、千葉で過ごした。小学生時代は4回と転校が多く、いじめにも遭った。「あえてケンカすることもありました。仲良くなる一つの手段ですから。その一方で、どうやったら人の輪にすっと入れるかを身につけました。だから、物おじせず、すぐ人と仲良くなれる性格になりました。これがアナウンサーという職業で生きたかなと思います」。

筆者も5回の転校を経験しているが、早くクラスに馴染みたいと逸る気持ちの一方で流されたくない、自分のアイデンティティ、主体性は守りたいという心理が常に働いていた。カッコよく言えば、「和して同ぜず」を貫かないと流れに流されてしまう危うさが転校生にはつきまとう。浜崎さんも「確かに。いろんなグループから誘われますが、1つのグループに偏らないように上手く付き合っていましたね」。和して同じない転校生の気質が今の浜崎さんの生き方に繋がっているかもしれない。

アナウンサーになりたいと思ったのは千葉市立千葉高校2年生の時。幼い頃から祖父の影響で中日ドラゴンズの熱烈なファンだった。ある日、東京ドームで巨人戦を3塁側のスタンドから観戦した。もう少し見やすい場所はないものかと見渡すと、バックネット裏の上にある日本テレビの放送ブースが目に入った。その瞬間、「あそこに座ろう」と思った。元々、話すことが好きだったこともあってアナウンサーを目指し、法政大学に進学し、早速アナウンス研究会に入った。ゼミはマスコミに強いゼミを選んだ。編集作業もやっていて、しゃべりも面白いがモノづくりの面白さにも目覚める。

第一志望は当然、プロ野球中継を存分にやれるキー局かドラゴンズの本拠地である名古屋の放送局だった。日本テレビ放送網の試験では残り15名まで残ったが、残念な結果だった。ちなみにこの時採用されたのは、現在フリーで活躍している羽鳥慎一アナ、最近フリーになった藤井貴彦アナがいる。アナウンサーの夢を諦めきれず、FBSを受ける。しかし、採用枠は男性は1人だけで浜崎さんは最終面接で落ちてしまった。ところが、内定していた学生がNHKに受かって辞退する。新潟放送に内定をもらっていた浜崎さんに繰り上げ採用の電話が入った。ホークス戦で野球中継ができる。迷うことなく即答した。


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