「一日のんびりゆっくり過ごせる」─祖先が遺したレガシーを次代に渡すという使命


2024年9月号 人・紀行 ─ 久保田晋平さん のこしのしまアイランドパーク社長

祖先からの遺産(レガシー)。後継者にとって、それはある意味重圧でもあり、同時に得難い財産でもある。この稿の主人公の久保田さんはそのレガシーを引き継ぐために家業に入って40年余り。次代にバトンを渡すべく模索している。

初の能古島

8月上旬。久保田さんの話を聞くために福岡市中央区の自宅を出発、車で15分ほどで西区姪浜にある能古渡船場に到着。市営船の出発時刻まであと15分。夏休みの平日とあって、若い人が多く、外国人の姿も意外に多い。外国人客の割合は時期によると5割を超えるという。乗船してはしばらく脊振山の山々と海の景色を楽しんだが、あっという間の10分弱で島に到着、自宅からドアツードアで1時間もかからなかった。筆者は30年以上福岡市に住んでいて、実はそれまで能古島に渡ったことがなかった。福岡市の海沿いからいつも見える島影に「いつかは」と思っていたが、なかなか渡る機会がなかった。

渡船場に迎えに来てくれた久保田さんの運転で、経営する海水浴場へ。話は砂浜沿いのテント下で聞くことになった。時折吹く浜風に癒されながら、海水浴客の歓声が耳に心地いい。

能古島は博多湾内に位置し、南北3.5㎞、東西2㎞、周囲12㎞、面積3.95㎢、人口は621人(2024年2月末現在)の小さな島だ。歴史は古く、古くは「残」「能許」「能護」「能挙」「乃古」とも記載された。神子柴(みこしば)系石器群の磨製石器の片刃の斧が見付かり、島北端の也良でも磨製石器の斧が見付かった。また、島内各地から黒曜石製の打製石器が発見された。島の南東部の高台に位置する北浦遺跡や島南部の西遺跡では、弥生時代前期末から中期前葉の弥生土器が発見されている。奈良時代には島北端の也良(やら)岬に、防人が設置された。

『火宅の人』などで知られ、直木賞作家であり無頼派作家とも言われた檀一雄の終の棲家になった島でもある。最晩年の昭和49年(1977)に島に自宅を購入し転居、月壺洞(げっこどう)と名づけた。2年後に63歳で死去。能古島に文学碑が建てられ、その文面には檀の辞世の句となった「モガリ笛 幾夜もがらせ 花二逢はん」と刻まれ、毎年5月の第3日曜日には檀を偲ぶ「花逢忌」がこの碑の前で行われている。“つきせぬ波のざわめく声に今夜は眠れそうにない”という歌い出し。フォークシンガーの井上陽水の『能古島の片思い』は、甘酸っぱさが切なさを募らせる名曲だ。

そしてこの島を象徴するのが、久保田さんが継承して経営する「のこのしまアイランドパーク」(以下、パーク)だ。昭和44年(1969)、15年の歳月をかけて父で創業者の耕作さんが開園した。19歳の耕作さんがサツマイモ畑を公園に生まれ変えた。今年で開園55年目を迎え、今では福岡市を代表する自然公園として親しまれている。広さ15万㎡の園内では春は菜の花、夏はひまわり、秋はコスモス、冬は水仙など、四季折々の花を楽しむことができる。開業前の昭和31年(1956)に灯台キャンプ村をオープンさせて、パーク開園の2年前に現在地に移転させたのが、話を聞いている場所だ。

久保田さんは平成11年(1999)、社長に就任、創業者の耕作さんからバトンを受け継いだ。その6年後の耕作さんは平成17年(2005)に亡くなった。

久保田さんが島に帰って38年目になる。帰る直前まで東京ディズニーランドを経営するオリエンタルランドで開業スタッフとして働いていた。高校を卒業して渡米し語学学校に留学、2年間アメリカで過ごす。父からは幼い頃から跡継ぎだと言い聞かされて育った。昭和57年(1982)帰国していったん実家で仕事するが、日本に初上陸するディズニーランドがスタッフを募集しているのを知り、居ても立ってもおられず応募し見事、採用が決まった。在米中に本場のアナハイムにあるディズニーランドで「こんなに面白いテーマパークがあるんだ」と感激した。最初は、今年惜しまれながら営業を終えた同園を代表するジェットコースター「スペース・マウンテン」、トゥモローランドのグランドサーキット、スタージェットに配属される。後に掛け持ちで夜のパレードにも関わった。

スタッフ全員がもちろん初めての体験。マニュアルと指導通りに取り組んで大きなトラブルはなかった。ただ、やはり慣れるまでは大変だったようだ。スペース・マウンテンは、11台が20秒間隔てスタートするが、乗り降りに時間がかかりすぎると緊急停止してしまう。復旧までには30分かかる。当時、ジェットコースターはスペース・マウンテンだけだったので、1日2万人もの利用客が殺到し長い行列ができた。ノウハウがない中で、何度か失敗をしながら「3台目が帰ってくるとエマージェンシーストップするので、最初の頃は8台でした。夏ごろにはフル稼働できるようになっていました」。日本での本格的なテーマパークのオープニングスタッフと仲間と試行錯誤しながらノウハウを構築していく手ごたえを感じていた。

憧れのディズニーランドで24歳まで3年半働いた。「もっといたかったんですが、父親が『帰ってこい』とうるさかったので、しぶしぶ」実家に帰ることになった。

創業者の先見

久保田家のルーツは久留米の北野町だが、曾祖父の代に島の土地を取得した。久保田さんが聞いている経緯は次の通りだ。

島を開発しようとした会社が工事代金を払えない事態に陥った。請け負った久留米の業者が未払いのかたに土地を受け取り、たまたま曾祖父の所に話が舞い込んだ。取得した曾祖父が亡くなった後に末っ子だった久保田さんの祖父が島の土地を相続する。昭和16年(1941)、当時7歳だった耕作さんは家族と共に島に移住する。ちなみにこの年に当時、残島と呼ばれていた島が福岡市に合併され名称が能古島に変わった。

島での新生活は、一家総出で開墾から始まった。大きな根を人力で掘り起こし畑を作っていく。一家はサツマイモを栽培し生計を立てた。船で本土に運んでいたが、戦後の高度経済成長時代にさしかかった頃、19歳だった耕作さんは農業視察で東京などを視察し、「都会の『低コスト・大量生産』には勝てない」と感じ、能古島での農業を辞めて、賭けてきた夢に方向転換する。耕作さんは、「これから先の未来は、街にはコンクリートの建物が並び、働き続けた人々は疲れた心を癒すために自然を求めるだろう」と考えた。福岡都心に近い、この能古島で島の景観を活かして公園をつくろうと試行錯誤しながら、一からつくり始める。


続きは本誌にて…フォーNET読者の会(年間購読ほか会員特典あり)


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

PAGE TOP