野村秋介の軌跡─『さらば群青』異聞─


2025年2月号 特別寄稿

野村秋介(のむら・しゅうすけ)

昭和十年東京に生れ、横浜で育つ。同三十六年「憂国道志会」を結成して右翼活動家として独立。同三十八年、河野一郎邸を焼き打ちして獄中に十二年、同五十年出所。その後同五十二年には財界の営利至上主義を撃つ、として、経団連本部を襲撃して再度六年間獄中に。この間十八年に及ぶ獄中生活であらゆる分野の書物を読破し、新右翼理論家としての基礎を固める。同五十八年に出所後は、ヤルタ・ポツダム体制の打倒を主題とする新しい民族運動=思想戦争を唱える。著書に『獄中十八年』『いま君に牙はあるか』『獄中句集 銀河蒼茫』『汚れた顔の天使たち』『美は一度限り』『友よ荒野を走れ』『さらば群青』など多数。映画プロデュース作品には『斬殺せよー切なきもの それは愛』(平成二年製作)『撃てばかげろう』(同三年製作、東映 系公開)などがある。また、自身の半生を追った記録ビデオ『風と拳銃―野村秋介の荒野』を製作。平成五年十月二十日、朝日新聞東京本社において二丁の拳銃で自決。 享年五十八歳。

筆者略歴/蜷川正大

蜷川正大(にながわ・まさひろ、1951年―)は日本の民族派運動家。元大悲会会長。二十一世紀書院代表。横浜市生まれ。私立横浜高等学校卒業。昭和45年(1970年)11月25日に起きた、いわゆる三島由紀夫・森田必勝の自衛隊東部方面総監室における自決事件(楯の会事件)に触発され民族派運動に入る。当時、横浜に本部を置く、菊水国防隊(現・菊水国防連合)を経て昭和60年、野村秋介の門下生となり、野村が主宰した「大悲会」の第二代会長となる。昭和60年~昭和62年まで、神奈川県維新協議会の議長に就任。昭和62年(1987年)1月13日、当時、マネーゲームに終始し、都心ではサラリーマンが一生かかっても一坪の土地さえ手に入れることの出来ない状況を招いた「狂乱物価」「土地高騰」の元凶として、義友同志会会長代行中台一雄、統一戦線義勇軍針谷大輔と共に、住友不動産会長の安藤太郎宅を襲撃し逮捕。同事件により、1987年6月9日、東京地裁から住居侵入や監禁などで懲役3年(求刑同4年)の実刑判決を受け網走刑務所に服役。平成2年4月に戦線に復帰。復帰後は、大悲会を後継者に譲り、野村が設立した出版社、株式会社二十一世紀書院の代表及び野村秋介事務所の代表を務める。季刊「大吼」(大行社機関誌)など様々な機関誌、媒体に執筆している。機関誌・月刊「燃えよ祖国」を発行。二十一世紀書院は、単なる出版社としてではなく、民族派運動における情報発信基地として、師・野村秋介の著書を販売すると共に、野村の命日に、追悼集会「群青忌」を毎年開催している。

政治、思想運動というものは、当然のことのように趣味や娯楽などでできるものではない。命を賭ける、とまでは言わないが、命懸け、で行わなければ、その人の政治信条が人に理解されたり、ましてや政治を動かすことなどできようもない。これは何も、政治の世界だけではなく、スポーツ、芸術といった世界でも同じことが言えるのではないだろうか。

古い話で恐縮だが、平成十四(二〇〇二)年にマガジンハウス(我々の世代は「平凡社」の方が馴染みが深い)から出版された『ダカーポ』という雑誌の十一月号で「にっぽんナショナリズム最前線・右翼の世界を覗いてみよう」というタイトルで、いわゆる右翼、民族派の特集を行っている。若い人向けの雑誌であるので、どちらかといえば軽いノリでの特集だが、中々どうして、かなり真面目に右翼・民族派の実態に迫っている。評論家や事情通といったつまらぬ連中の解説がなく、現役活動家の方々のインタビューと取材で構成されているので、とても分かりやすい。

私も、ほんのお付き合い程度にコメントを載せているが、感激したのは、その特集の中に活動家に対するアンケートが幾つかあり、「尊敬する人」の第五位に私の恩師である野村秋介先生が挙げられ、「右翼としての必読書は」には、「野村秋介の著書」として、野村先生の『さらば群青』が第一位となっていた。

余談ではあるが、「購読している雑誌」の第四位には、一水会の機関紙『レコンキスタ』と並んで、私が発行している機関誌『燃えよ祖国』の名があった。ちなみに、三位までは、『正論』『諸君』『サピオ』の順。これはむべなるかな。

『さらば群青―回想は逆光のなかにあり』は野村先生の遺著となった単行本である。文字通り、先生が命を賭けて世に放った言葉が、民族派運動に携わる若い人達の心に谺し「必読書」となったのである。正に門下生冥利に尽きる。

その『さらば群青』の帯には、「これは野村秋介の遺書である」と書かれている。実は、このコピーは野村先生が考えたものではなく、当時、先生の出版社(一応名義上は私が代表者であったが)にいた、T編集長が帯のコピーを担当した。その彼の筆によるものである。

単行本の初刷りが届いたとき、当時赤坂のみすじ通りにあった事務所で、先生は刷り上がったばかりの本を手にして、「おいおい編集長よ、これじゃ俺が本当に死ななきゃならねぇな」と、軽口でかわした。それから一週間の後に先生は、朝日新聞東京本社において壮烈なる自決を遂げるのだが、私たちにはその素振りさえ、微塵も感じさせなかった。

『さらば群青』が発売されたのは、平成五年の十月二十日。すなわち先生の自決の、その日である。


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