歴史に埋もれた「土木の神様」田中吉政初代筑後国主とは─子孫が語るその実像と功業


2025年8月号 そこが聞きたい! インタビュー

初代筑後国主・田中吉政。築後をはじめ近江八幡、岡崎を当時の最先端の土木技術で豊かで堅牢な町づくりを進めた戦国武将だが、歴史上、あまり知られていない。その実像と功業を子孫が語る。

田中義照氏 田中吉政公顕彰会 副会長

昭和24年(1949)、久留米市生まれ。吉政公の次男・吉信の子孫にあたる。福岡大学経済学部卒。サラリーマン生活を経て、30歳で脱サラし、(株)九州蜂の子本舗を創業。

近江八幡、岡崎

―地元の筑後地区でかつて「土木の神様」と謳われた田中吉政公(1548~1609 以下、吉政公)は、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の政権の中枢で活躍し、初代筑後国主32万5千石の大大名でもあるにもかかわらず、歴史に埋もれた存在でした。吉政公は拝領したぞれぞれの地で都市づくりをやっていますね。

田中 インフラ整備、特に水運、治水をやっています。当時の物流手段として舟運が必要でその水路整備から都市づくりを始めました。琵琶湖周辺の近江三川村(現在の滋賀県長浜市)に地侍の長男として生まれた吉政公は出世し、秀吉の甥である羽柴秀次(後の豊臣秀次 関白)の宿老になります。その後、秀次が近江八幡の43万石の大名になると、吉政公はその筆頭家老になり、政務を取り仕切ります。信長が本能寺の変で斃れ、焼失した安土城の城下町を八幡城下に移し、築城と城下町の整備を手掛け、近郊から商人を集めて「三方よし」の近江商人を生み出し、楽市楽座を造り流通経済の基礎を築きました。
鬼夜で有名な大善寺玉垂宮の石の鳥居に彫られた2代目・忠政の名の上に「橘朝臣」という字があります。天皇から賜った賜姓(四姓)「藤橘源平」の橘がルーツ、つまり天皇家に繋がる家系だと分かります。この他にもそれを裏付ける史実が残っています。秀吉は公家の血を引く吉政公を朝廷との関係構築のためにも厚遇したのだと思います。こうした血統だったから、信長、秀吉、家康のような天下人になるという野心を持っていなかったのでしょう。戦乱の世を終わらせたいという気持ちが強かったのもその血統だったからこそです。当時、天皇の食が採れた琵琶湖の水質の保全のために日本で初めて上下水道を造ったのも吉政公です。

田中吉政公(東京大学史料編纂所所蔵)

―その後、三河国岡崎城の5万7千4百石を拝領しますね。

田中 元々、吉政公が秀次の宿老になったのは、秀吉から自分の後継者である甥の後見人になるよう依頼されたからでした。秀次は尾張国・伊勢国北部5郡などが与えられ、旧領と合わせて100万石の大大名になり清洲城に入りました。岡崎は元々松平、家康のルーツの地で領民は家康を崇めていた地に入るのですから容易なことではありません。実力者である家康を抑える意味もありました。秀次が自害した後も吉政公たち宿老のお咎めがなかったのはそうした背景があったからです。

その後、三河国岡崎城の10万石を拝領し、本格的な町づくりを始めます。城を整備し、城下の町割りは町を堀で囲む「田中堀」を造り、低湿地を埋め立てて岡崎の郊外を通っていた東海道を城下の中心を通るように「岡崎二十七曲がり」を整備したことで、八丁味噌、陶器、石工、木綿、和菓子、西尾の茶、塩田など産業が振興しました。城から870メートル、八丁離れた所に味噌蔵を集めたのが八丁味噌の始まりです。今でも昔ながらの製法で作っている蔵のご主人が「吉政公のお陰で」と丁重にお迎えいただきました。こうした吉政公の善政を家康はかなり高く評価していたと思われます。それを裏付ける家康から吉政公に宛てた書状が岡山城にあります。関ヶ原の戦いの前哨戦となった伏見城の戦で二条城に籠城する家康の家臣・鳥居元忠の助けを求める内容です。一日遅れで吉政公の手元に届いて間に合いませんでした。

琵琶湖周辺吉政ゆかりの地
旧東海道(岡崎二十七曲がり)

町づくりの集大成

―家康からは褒賞として筑後30万石と豊前と豊後・中津の30万石のどちらかを取るかと言われて筑後を選んだそうですね。

田中 関ヶ原の合戦で東軍に属し、東軍の勝利後、逃亡中の石田三成を捕らえ大功を挙げます。三成と吉政公は近江国の出身で旧知の間柄でした。腹痛を起こしていた三成に養生するためにニラ粥を勧めて体調が戻るまで手厚くもてなします。吉政公のその温情に感謝した三成は、家康に引き渡される前に三成が秀吉から拝領した脇指「貞宗」を吉政公に授けました。

中津は瀬戸内の通行権を持っていて魅力的な条件が揃っていました。しかし、吉政公はこれからは国内よりも海外との交易の時代だと予見しており、筑後には山があり川があり、そして海があるという地理条件に海外交易の可能性を見出し、筑後を望みました。将来は有明海を拠点海外交易を吉政公は、慶長6年(1601)に初代筑後国主になります。

―八幡、岡崎でやった町づくりの集大成が筑後だったんですね。

田中 柳川城は有明海に面していて堀で幾重にも囲まれています。敵が攻めてきた時に水門を閉めて上流の矢部川の堤防を切り崩して城下町以外の周辺部を水没させて侵入を防ぐ仕組みになっていました。柳川城は地形を生かした堅牢な城で「柳川三年肥後三月肥前久留米は朝茶の子」という戯れうたにあるくらいです。兵糧攻めの対策にやったのが、「慶長本土居」です。有明沿岸32キロに及ぶ工事を約2万人を動員して潮止堤を造り、内側を干拓して米を増産しました。

―運河も造って水運による殖産興業も盛んでした。

田中 筑後川下流にある昇開橋の近くにある花宗川は吉政公が開鑿した約23キロの人口の川です。昔の船は手漕ぎですから平坦な運河にして上りやすいように工夫されました。この大運河によって水運に恵まれます。吉政公が岡崎から優秀な船大工として活躍していた榎津久米之介を招聘し、「大川指物」という木工品が出来ました。これが現在の大川家具の源流です。

―この他にも殖産興業に力を入れています。

田中 山には当時のエネルギー資源である木炭が豊富に取れます。また、山から川を通じて、豊富な栄養分が海に注がれて豊饒の海を創り出すことを重視し、領内の星野、矢部、黒木地区の山にミズナラなどの照葉樹を植えて栄養分を生み出す腐葉土が豊かな山を作りました。また、これらの地区では米がわずかしか採れないので、年貢を2割に下げて山林の保護に力を注がせるために二公八民にしました。川の中流域には櫨(はぜ)、楮(こうぞ)など殖産を支える樹木を植林させます。

八女市には福島仏壇、提灯、手すき和紙、石灯ろう、八女矢、竹細工、和ごまなど伝統工芸品が数多くありますが、この多くは吉政公の時代にその源流を認めることができます。例えば、櫨蠟(はぜろう)。櫨の実を絞って作られる櫨蝋は、「ジャパンワックス」とも呼ばれ、古くから和ろうそくだけでなく、お相撲さんの鬢(びん)付け油、木製家具や建具の艶出し剤、膏薬(こうやく)や口紅などの原料として、江戸時代から幅広く使われていました。和紙が八女提灯という伝統工芸を生み出しました。この櫨蠟・楮は吉政公時代に盛んになりました。

和紙の生産は提灯の発展に貢献しただけはなく、全国的に名高い銘茶・八女茶にも大きな影響を与えています。当時は釜炒り茶が主流でしたが、八女茶は特産の和紙を重ねて下から炭火で焙り茶葉を揉み蒸す製法で、その伝統技法は今でも継承されています。和紙の原料の楮も吉政公時代から盛んに植林されたから盛んになったんです。

―水運だけではなく陸道も造っていますね。


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