2026年8月号 そこが聞きたい! インタビュー

鹿児島県鹿屋市串良町柳谷。通称「やねだん」。人口300人余りの小さな集落は、いまや全国から年間数千人が訪れる地域再生のモデルとして知られている。豊重哲郎さんが館長に就任した当時の自治会の預金はわずか1万円。高齢化と人口減少が進み、地域活動への参加者も減少していた集落が、なぜ全国から注目される存在へと変わったのか。その中心にいるのが豊重さんだ。しかし豊重さんは、自らの実績を誇ることはない。30年にわたる挑戦の原点と、地域づくりの本質について聞いた。
豊重哲郎(とよしげ・てつろう)さん
1941(昭和16)年生まれ。鹿児島県串良町(現・鹿屋市)出身。地元高校卒業後、東京の銀行に就職。1970年に帰郷し、うなぎ養殖を始める。1981年うなぎ専門店「うなぎの川豊」創業。1985年民間主導型村おこしグループ「串良やったる会」結成。1996年「うなぎの川豊」閉店、うなぎエキス「ヘルプアイ本舗」創設。同年、柳谷自治公民館長就任。以降、行政に頼らない地域づくりを掲げ、独創的な集落再生を実践。2007年より「やねだん故郷創世塾」主宰(年2回実施)。著書に『地域再生―行政に頼らない「むら」おこし』。
「残高1万円」からのスタート
─館長就任当時のやねだんはどのような状況だったのでしょうか。
豊重 今でこそ地域再生の成功事例と言われますが、当時は本当に厳しい状況でした。館長のなり手はいない。婦人会もなくなっている。共同作業への参加者も減っている。若い人は外へ出ていく。地域全体に「どうせ何をやっても変わらない」という諦めの空気が漂っていました。私は本気で思いました。このままでは集落がなくなる、と。
人口減少より怖かったのは無関心です。人が減っても地域への思いがあれば共同体は続きます。しかし無関心が広がれば地域は静かに崩れていく。まず人の心を取り戻さなければならないと思いました。
館長になって最初に自治会の通帳を見ました。残高は1万円でした。本当に1万円です。銀行員時代の経験がありましたから、その数字の重みはよく分かる。「これはまずいな」と思いました。そこで住民に言ったんです。「ないものを数えるな」と。
金がない。若者がいない。仕事がない。そんな話ばかりしていても前には進みません。人がいる。土地がある。歴史がある。地域には必ず宝がある。その宝を見つけることから始めようと考えました。
─地域づくりの発想はどこから生まれたのでしょうか。
豊重 私はもともと東京の銀行に勤めていました。その後、故郷へ戻り、うなぎ養殖や飲食店経営を始めました。借金は3000万円ありました。今思えば無茶だったかもしれません。商売というのは厳しい世界です。売上がなければ生きていけない。借金も返さなければならない。うなぎ店を開いて、私は家内と共に8年間、一日も休みませんでした。元日から店を開けて働いていました。でも、その経験が後の地域づくりに生きたんです。地域も経営なんですよ。理想だけでは続かない。お金だけでも続かない。人と経営、その両方が必要なんです。
だから私は館長になった時から、自立した地域をつくりたいと思っていました。補助金がなくなったら終わるような地域ではなく、自分たちの力で歩ける地域です。
補助金と前例主義が地域を弱くする
─地方創生が思うように進まない地域も少なくありません。原因をどう見ていますか。
豊重 私は大きく二つあると思っています。一つは補助金依存です。補助金そのものが悪いわけではありません。しかし補助金をもらうことが目的になってしまう地域がある。補助金が終われば事業も終わる。それでは人が育ちません。
もう一つは前例主義です。「前例がないからできない」「どこもやっていないからやめよう」。そんな話をよく聞きます。でも地域を変える人は前例を追う人ではなく、前例をつくる人です。やねだんで始めたことも、最初は前例なんかありませんでした。高校生クラブもそうですし、後に始める焼酎づくりもそうです。もし前例だけを追いかけていたら何も生まれませんでした。失敗したらやり直せばいいんです。やらないことの方が問題です。
私はよく「百語るより一歩動け」と言います。会議で立派なことを言うより、まず動くことです。地域づくりは現場でしか進まないんです。
3331理論──反対者から動かす
─住民の理解はどのように得ていったのでしょうか。
豊重 私はよく3331理論という話をします。自主的に参加する人が3割、義理で参加する人が3割、無関心な人が3割、反目する人が1割という考え方です。ただ実際には強く反目する人は1割もいませんでした。せいぜい7〜8人ほどでした。そこで私は考えたんです。賛成者を増やす前に、まず反対する人を感動させようと。
多くの人は反目者を説得しようとします。でも私は違いました。反目する人には反目する理由がある。地域に期待したこともあったし、過去に失望した経験もある。だから反目しているんです。その中に地域でも影響力の大きい長老がいました。一声かければ何人も集まるような人です。しかし昔からのわだかまりもあって地域活動にはほとんど参加していませんでした。
─ なぜその方に注目したのですか。
豊重 能力があったからです。周りは「あの人は難しい」と言っていました。でも私はそう思わなかった。実は昔、うちの父親とその長老は町議会議員選挙で争ったことがあったんです。父が落選して、それから両家の関係もぎくしゃくした。田舎ですからね。そういう空気は孫の代まで残るんです。でも私は逆に思ったんです。この人が動けば周りも動く。飲み会を開けば人が集まる。声を掛ければ仲間が集まる。地域にとって必要な人だと。だから何とかしてもう一度表舞台に出てもらいたいと思いました。
─そこからどうされたのでしょうか。
豊重 ある年の忘年会でした。その方がぽつりと話したんです。「長男が15年帰ってこん」。電話もない。どこにいるかも分からない。もう80歳になる。寂しい、と。その言葉が耳に残ったんです。私はその場で決めました。「この人を感動させよう」と。それから同級生をたどり、親戚をたどり、息子さんの居場所を探しました。ようやく名古屋で元気に暮らしていることが分かったんです。
─そこで例のメッセージ放送ですか。
豊重 やねだんでは母の日、父の日、敬老の日に「感動のメッセージ放送」をやっていました。都会で暮らす子どもたちや孫たちから手紙を送ってもらい、それを高校生たちが朗読するんです。ただ私は最初からその長老の話を使おうとは思いませんでした。最初にやったら「あざとい」と思われる。だから母の日、父の日と続けて、みんなが自然に受け入れる流れをつくった。
そして敬老の日です。「今だ」と思いました。息子さんに手紙を書いてもらい、高校生たちに読んでもらったんです。放送が終わった後、私は涙声でこう言いました。
「メッセージを送ってくださった皆さん、そして朗読してくれた高校生たちに大きな拍手をお願いします。原本をお届けに参りますので少々お待ちください」
そして高校生たちと一緒に原稿を持って家へ向かいました。そこで、私も思いもしなかった出来事が起きたんです。
─何が起きたのですか?
豊重 家に着くと、その長老と奥さんが庭先に出て待っていたんです。普段なら総会にも顔を出さない人です。「飲み方に来んね」と誘っても出てこない。だから正直、怒っているかもしれないと思っていました。でも私は思い切って大きな声で呼びました。 「おじさん!」。すると、その人が裸足で下着姿のまま庭を駆け下りてきて、私のところへ来るなり、「哲郎!」と言って抱きしめてくれた。そして、「ありがとう」と何度も何度も言うんです。私はその時に分かりました。人は理屈では動かない。
感動で動くんです。息子さんは名古屋で元気に暮らしていました。長年連絡を取っていなかっただけだった。でも、その手紙が届いたことで親子の絆が戻った。その出来事をきっかけに、その長老は変わりました。地域活動にも顔を出すようになった。周りの人たちも変わった。私はこの経験から確信したんです。 地方創生だけでは足りない。感動創生が必要なんだと。地域を変えるのは事業じゃない。人の心なんです。
─人づくりが少しずつ形になっていったわけですね。
豊重 地域づくりは、一つ成功したら終わりじゃありません。次の課題が見えてくる。その繰り返しなんです。最初に取り組んだのは高校生クラブでした。子どもたちに地域で夢を持ってもらいたかった。だからサツマイモを植えて、自分たちで旅費を稼ぎ、イチロー選手を見に行こうと始めたんです。すると不思議なことが起きました。高校生が一生懸命畑で汗を流している姿を見て、大人たちが動き始めたんです。最初は十数人だった作業が、やがて100人近く集まるようになりました。朝7時開始なのに、高齢者は朝5時から畝を作って待っている。「若いもんに負けられん」と言ってね。
私はその時、「地域はまだ死んでいない」と確信しました。そこから毎年、新しい挑戦を積み重ねていきました。寺子屋も始めました。地域の子どもたちの学力を何とかしたかった。先生には町内会が年間60万円を負担し、子どもから授業料は取りませんでした。高齢者には生きがいづくりを始めました。空き地には花を植え、地域美化を進め、グラウンドゴルフ大会や様々な交流会も続けました。
その一方で、地域には財源が必要でした。だから私は「地域ブランド」を考え始めたんです。サツマイモを作るだけでは限界がある。加工品にしなければ地域は豊かにならない。そこで誕生したのが焼酎「やねだん」でした。
最初はみんな反対しました。 「そんなもの売れるわけがない」「集落の名前を付けた焼酎なんて誰が買う」。でも私は確信していました。地域の名前をブランドにしなければ、自立はできない。発売すると予想以上の反響でした。やがて韓国のテレビ局がやねだんを紹介し、それを見た韓国の実業家が「ぜひ現地を見たい」と訪ねてきました。その縁で焼酎は韓国へ輸出され、「やねだん」という名前の居酒屋までオープンしたんです。地域の名前が国境を越えた瞬間でした。
自主財源も大きく増えました。自治会は住民全世帯に地域ボーナスを配れるまでになり、福祉や教育へ投資できるようになった。私はその時も思いました。焼酎が目的じゃない。人が育った結果として焼酎が生まれたんです。その後も挑戦は止まりませんでした。韓国との交流は20年以上続き、やねだん故郷創世塾には全国から自治体職員や議員、地域リーダーが集まるようになりました。
─活動が広がる中で苦労もあったのではありませんか。
豊重 一番驚いたのは税金でした。やねだんの活動が活発になり、焼酎や様々な自主事業を始めるようになると、税務当局から「みなし法人」と判断されたんです。町内会なのに法人と同じような扱いを受ける。私は驚きました。地域のために頑張っているのに、今度は税金との闘いかと。でも考えてみれば、それだけ活動が大きくなったということでもあったんです。そこで私は発想を変えました。
文句を言っても仕方がない。だったら税金を払っても残るだけの自主財源をつくろう、と。私はいつもそうなんです。壁が現れたら乗り越える方法を考える。無理なら別の道を探す。愚痴を言っても地域は変わりませんから。