「日本」を遺すために散華した英霊たち─神風連の本拠地で祈りを捧げる


2025年2月号 聞き書きシリーズ ─ 太田黒悠(はるか)氏 新開大神宮宮司

22代目宮司

神風連の首領・太田黒伴雄は17代目の宮司で、私は22代目となります。

伴雄とは直系ではありませんが、血のつながりはあるようです。

文安2年(1445)の創建以来、太田黒家が宮司を務めておりましたので、父の死後跡を継ぐことになりました。当時は不安もありましたが、地元の方々からは大変歓迎して頂き非常に心強くありがたく感じたということを今でも思い出します。

新開大神宮は、熱心な伊勢神宮の崇敬者だった初代宮司の孫七郎が天照大神の託宣を受け、文安2年(1445)に創建したと伝わっています。孫七郎は、勤皇一族である菊池氏6代の隆直公の末裔で、当初より菊池持朝公の熱心な崇敬を受けていました。しかし、安土桃山時代には佐々成政によって熊本中の神社仏閣が焼失させられ当宮も焼失しました。

その後、加藤清正公が新しい領主になられて、熊本城築城に合わせて神社仏閣の再建にご尽力いただき、当宮も再建することができたと伝わっています。その後、清正公をはじめ歴代藩主の直参を頂き、熊本城から当宮までの参道は「伊勢道」、当宮は「伊勢宮さん」の愛称で親しまれました。
時代は下って、幕末・明治維新を迎える頃には日本の碩学であり肥後国学の祖である林櫻園の熱心な崇敬や櫻園を師と仰ぐ肥後勤皇党とその後の神風連が最も信仰を寄せていました。

明治9年(1867)、新開大神宮宮司の太田黒伴雄を首領とした神風連の志士が挙兵し、熊本鎮台を襲撃しました。彼らは神道を重んじ尊皇を信条として自ら敬神党と名乗っていましたが、一般には神風連と呼ばれていました。

「乱」ではなく「変」

神風連志士たちの挙兵は長年、神風連の「乱」と呼ばれていました。当時は頑迷偏屈な集団の反乱として「神風連の乱」が一般的呼称だったのですが、後に「反乱ではない」ことが理解され「乱」は「変」にあらためられ「神風連の変」が正しい表記となりました。「乱」は国家に対する反乱を意味し、「変」には成功しようがしまいがこのままだと日本という国がなくなるという強い危機感で決起したという意味があると思います。伴雄は大正13年(1924)に正五位を贈られていて、賊徒という汚名は晴らされていました。戦後、昭和43年に熊本県護国神社に神風連の志士たちが合祀された前後に、神風連の変と変わったと考えられます。しかし、今日でも多くの書物などでは「十把一絡げ」に「不平士族の反乱」として扱われていることを残念に思います。

西南の役などに比べれば戦闘はわずか1日で終結したので、その意義を忘れられがちです。神風連の志士たちは 明治新政府の「西欧化政策」により国民の道議や道徳心をも廃れていく風潮を憂慮し「道義の恢復」を一心に祈り決起しました。10数年前に上映されたハリウッド映画「ラストサムライ」の背景的原型が「神風連」と「西南の役」です。映画をつぶさに見ていくと主役の「オルグレン大尉」(トム・クルーズ)の来日が明治9年(1876)、政府軍との最後の戦闘が明治10年(1877)となっています。明治9年は「神風連の変」、明治10年は「西南の役」が起きた年です。さらにもう一つ 観るものに強い感動を与えたラストシーンの戦闘開始は5月25日でこの日は湊川で討ち果てた楠木正成翁自刃の日でもあります。

映画の脚本・構成は我が国固有の価値観「道義と国体」に殉じていった日本史上の出来事に重ね合わせてあることが判ります。歴史的には西南の役で幕末を迎え明治維新以来続いてきた「内戦」が終結し 国家が一つの方向性を目指して本格的に歩だした年とされていますが、その最大の「戦い」のきっかけとなったのが「神風連の変」です。
教科書的には外圧など様々な時代の変化に対応しきれなくなった徳川幕府の治世に限界が生じ 危機的な「内憂外患の国家」を立て直そうと、「尊皇攘夷」を旗頭に勤王の志士たちが集結し「大政奉還」を成し遂げ、「理想国家再構築」をはじめようとした。その始まりが明治維新といいますが、いつしかその方向性は変容し、ついには絶対に壊してはならない「歴史」や「伝統文化」そしてそれだけに止まらず、建国以来の根本的理念「道義・道徳」の崩壊までもが国家国民に生じ始め「日本らしさ」はもはや風前の灯火のように消え失せようとしていました。

「明治維新」それは数百年間続けてきた多くの生活習慣を捨て、全く異質な新しい価値観での暮らしを余儀なくされた時代でありました。現代を生きる私どもには想像することすら難しい「時代の大転換」が幕末明治維新期といえるのではないでしょうか。日本は世界最長の2000年以上の連続した歴史と伝統を有しており これを礎とした理想や理念「道義」が重んじられ続けてきた国家で 今日でもその価値観はかわらずに脈々と息づいています。その「道義」も時代の急激な変化とともに瓦解へと向かい、最も大切な「日本らしさ」が消え失せようとしていた。つまり「日本らしさ」この一筋をひたすら守ろうとした事変が「神風連の変」です。

三島由紀夫と宇気比

新風連の変は、宇気比(うけい)の戦いといわれています。作家の三島由紀夫先生が、『奔馬 豊饒の海(二)』を書くために、昭和41年に神風連の取材で熊本を訪れたとき、応対したのが先先代にあたる祖父で、当宮にお一人で来られて宇気比のことを聞いて帰られたそうです。宇気比とは神慮を伺う秘法で、『古事記』にも天の岩戸の前章に宇気比の神話があるほどです。宇気比には三つの作法があります。一つは、審神者(神主・祈祷師)を以て神命を問うこと。二つめは、〆事(みそぎ・祓い)を以て神の心を問う。三つめは、夢見て神の訓を請う(願をかける、ひたすら祈ること)。神風連の人々がどんな方法を行ったのかは、定かではありません。


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