2025年8月号 人・紀行 ─ 長瀬大輝さん(33歳) ディライト代表

ある会合での長瀬さんのプレゼンテーション。その業種と仕事、それに向き合う彼の姿に興味を覚えて早速取材を申し込んだ。33歳という若さ、今年から遺産整理を始めたばかりの長瀬さんの人生を振り返るには、どちらかと言えばこのコーナに登場してもらうのは若過ぎるかもしれない。しかし、実際に話を訊くと、静かに語る彼の仕事に賭ける熱量に刺激を受けた。
形見のこと
亡くなった人への想いを忘れないために持つ「形見」は、故人が遺した遺品の中から選ぶことになるが、この整理がなかなか難しい。筆者が人生で最初に手にした形見はおよそ50年以上前に亡くなった祖父の腕時計だった。セイコーの自動巻き時計を高校入学時にはめていたが、水泳の授業の着替えで落として壊れてしまった。祖父の形見を直そうと思っていると、母親がその頃出回り始めた「セイコークォーツ」を買ってきた。
後ろ髪を引かれる思いを振り切って新しい腕時計を手首に巻いた。当時の価格で6万円だったとそれから数十年経って初めて知った。日頃口やかましい母親からの愛情表現だったのだろう。その腕時計は50年近く経った今も筆者の手首で時を刻んでいる。さすがに何度か修理してこれまでかかった費用は10万円以上。恐らく死ぬまではめるだろう。この時計が息子への形見になると思っている。
長瀬さんが取り組む遺品整理業務は、遺族の代わりに故人の不要なもの、価値があるもの、形見分けしたいものに仕分ける。価値あるものは長瀬さんが買い取る。それ故に目利きと誠実さが求められる。業界自体が未成熟で中にはそのまま引き取って価値があるものを遺族に黙って転売する輩も多いのが現状だ。
そんな業界に若い長瀬さんが飛び込んだ背景には何があったのだろうか。
平成4年(1992)、福岡市西区でサラリーマン家庭の一人息子として生まれる。「母親からは反抗期がなかったと言われました」。中学校からバレーボールに熱中し、ポジションはクイックをメインの攻撃としたポジションでブロックやの要となるセンター。後衛時は専門のリベロと交代し前衛のみでアタックが得意だった。スポーツ推薦で福岡工業高校に進学した。しかし、2年生の冬に退部してしまう。それまで尊敬していた顧問の教師が転出し、新たな顧問になったOBとソリが合わなく、 半年以上我慢したが耐え切れなかった。
辞めてブレイクダンス(ブレイキン)教室に通う。2024年のパリオリンピックから正式競技になったブレイキンだが、当時は「ヤンキーとか不良がやるダンスでした」。高校卒業と共に辞めるが、その頃には、床に背中をつけながら両足を回転させるブレイキンの代表的で高度な演技「ウインドミル」をマスターしていた。
ダンス教室には野球で肘を壊して退部していた仲間がいた。彼は「福岡スクールオブミュージック&ダンス専門学校」のダンス科を志望して誘われる。オープンキャンパスで観た在校生によるゴスペルアンサンブルに感動し、ボーカルコースに進学する。3年生の時に芸能事務所に勧誘されて、卒業後芸能界を目指した。
当初から4年間で芽が出なければやめようと決めていた。音楽と俳優活動を始めるが、「ギャラがゼロという月もざらではありませんでした」。食べられないのでガソリンスタンドで働いた。それでも芽が出ず、25歳できっぱりやめて、バイト先のガソリンスタンドに正社員として採用された。
就職して1年後、26歳で結婚、27歳で娘が生まれる。しかし、将来を不安に思うようになった。カーボンニュートラルでガソリン車が無くなるとガソリンスタンドも不要になる。現にハイブリットカー、EVなどの普及でスタンドが次々に廃業していた。
「政府は2050年にガソリン車を無くす方針で、その頃は僕はちょうど60歳。定年が延長されるかもしれませんが、その時にはガソリンスタンドしか経験がないので先行きに不安を覚えました。また、人生100年時代で年金がもらえるかどうか分からない」
30歳で脱サラ
すでにマイホームを購入していた30歳の時に思い切って辞めて自営業の道に入った。飛び込んだのは「ネットなどでこれから伸びる業界」とあったリユース業だった。元々、リサイクルショップで服などをよく買っていたので親近感もあり、無店舗で買い取り専門業を始めた。開業した当初の資金、つまり貯金はわずか20万円。それまで家計を助けていた妻は体調を壊していて、月々のローンと生活費をどう稼ぐか。「背水の陣というより崖っぷちでした」。親戚には商売人は1人もいないので誰からもアドバイスをもらうこともできない。若さ故の決断だったのだろう。
「祖父や父の世代は高校を卒業して就職、家庭を持って子供を授かり、家を建ててマイカーを買う。定年後は悠々自適というパターンが多かったと思いますが、僕らの世代はそういうパターンは難しいと思います」
最初は無店舗で西日本各地にある古物市場に出向いて仕入れた。生活が懸かっているから必死だった。1カ月目の利益は50万円で順調に滑り出した。その年の年末に100万円の利益を上げるまでになった。それでも常に仕入れないと売りが立たない。すると、取引のある業者がネットオークションを開いているのを知り参加。これで移動費と時間を節約することができた。
「結局、ネットでも発送費や手数料でトントンだったんですが、家族との時間を持てるようになりました」
買い取りの利益率は10~20%の世界。10万円で仕入れたものを11~12万円で売る。資金力が必要なので銀行から借り入れた。詐欺にも遭ったことがある。当時ネット上で流行っていたブランド卸し業者からブランドバッグ50万円分を注文し支払った。送られてきた段ボールを開けると、「ボロボロのものばかりでした」。電話しても繋がらない。
ネット上で順調に推移していたが、次第に一般人も参入してくるようになってきた。ネットの手軽さで参入障壁が低く、副業で稼ごうという人が増えてきたのだ。競合が激しくなって利益率が5%に落ち込む。そこで直接仕入れようとオフライン会や出張買い取りを始めて、対面で価値あるものの買い取りを始めるために今年1月に店舗を構えた。
しかし、買い取り専門店は大手チェーン店を中心に乱立している。集客力ではとても太刀打ちできない。
そんな時に遺品整理の世界と出合う。遺品整理している取引業者は遺品を全部タダで受け取ってそれを売り払っていた。その業者は残置物の所有権を無償で移転するという契約を結んでいたので合法だが、遺品整理の手間賃をもらっているのである意味、二重取りだ。