2025年7月号 人・紀行 ─ 日名子勝さん(42歳) WinWin代表(元自衛官)

紹介された時は「元自衛官で健康にいい食品を作っている」という触れ込みだった。流行りの「ケンショク」(健康食品)ビジネスか…実は、正直に言えば会う前はそこまで興味が湧かなかった。しかし、いざ会ってみると、その先入観はものの見事に霧消していた。
「調理師免許」という誘い文句
名刺を交換。目を凝らすと「元防衛大学校教官」「PKO派遣隊員」「レンジャー隊員」という経歴が刻されている。取材前は言葉は悪いかもしれないが、そこまでバリバリの自衛官だったとは知らなかった。健康食という日名子さんのテーマに自衛官生活がどう繋がるのか、俄然興味が湧く。自衛官はおろか自衛隊自体を取材したことがない筆者は、自衛隊時代の話から聞き始め、当然の如くのめり込むように耳を傾けた。
「環境や生活習慣で生存確率を上げるスペシャリスト」
同じく名刺に刻まれたこのフレーズの意味は詳しくは後述するが、日名子さんのこれまで自衛官時代に培ってきた志であり人生の目的である。
大分市で2人兄妹の長男として生まれる。父親は自衛隊に4年間勤務した後、祖父が亡くなったために帰郷し、長距離トラックの運転手として働いていた。中校時代はバドミントン部に所属していた。ちなみに同じクラブに北京、アテネオリンピックで当時世界ランク1位の中国ペアを破るなど活躍したバドミントンペア「スエマエ」の末綱聡子選手も所属しており、2つ年上の末綱選手と一緒に練習したこともあるそうだ。
高校へはバドミントンで推薦入学する道もあったが、「バドミントンでは将来ご飯は食べられない」と断った。日名子さんは元々調理師になりたかった。小学校高学年になると、長距離運転で不在の父と病気がちの母の代わりに料理を作っていた。4つ下の妹が喜んでくれたことが調理師を目指すきっかけになった。調理師免許が取れる私立高校に進みたかったが学費が3倍もかかる。家庭の経済事情で断念し、県立高校に進学する。高校時代は軟式テニス部に所属した。
父は昨年亡くなった。「私が健康に気をかけるきっかけが父でした」。父は昼夜逆転の生活を続け食生活もコンビニ弁当など添加物が含まれるものを食べていた。64歳で認知症になり、最期は施設で70歳の若さで亡くなった。
「日名子家の男は短命が多く、長生きした者が少なく、私も父の血を引いているので、食生活や生活習慣に関心を持つようになりました」
高校卒業後はアルバイトで資金を貯めて調理師学校に進もうと考えていた矢先に転機が訪れた。
自宅に地方協力本部の係員が訪れ、「車と調理師免許が取れる」という言葉に惹かれる。
「バイトしながら学校に通って取らないといけないと思っていたのに、自衛隊に入れば給料をもらいながら免許が取れるのは魅力的でした」
国防意識よりも実利で自衛隊の道に進んだ日名子さんだったが、高校時代は遅刻が多く、規則正しい自衛隊の生活に合うのか、父からは「そこで鍛え直してこい」と送り出された。そんな動機で入ったが自衛隊の水が次第に肌に合っていく。
まず、鹿児島県霧島市の国分駐屯地にある陸上自衛隊113教育大隊で2等陸士として入隊する。全寮制で自衛隊員としての基礎を叩き込まれる。朝6時に起床、洗面・朝食後は銃の分解・結合、敬礼の訓練や筋トレなどの「間(ま)稽古」と呼ばれる訓練が始まる。強制的な教育という側面も否定はできないが、礼儀、規律、組織の在り方など危険を伴う自衛隊の職務を安全に確実に遂行するには、何も知らない訓練生には「体」で覚えさせるしかない。頭で理解してもとっさの時には役に立たない。「今、教育隊の教官は苦労が多いと思います」。今では禁じられているが、連帯責任の罰もあった。
訓練についていけず脱落する訓練生はいた。「3割は脱落していたんじゃないでしょうか」。日名子さんは自衛隊に向いていたのだろう、そんなに苦痛ではなかったという。3カ月の訓練を終えるまでそれぞれの希望配属部署を決める。普通科、機甲科、特科(野戦特科/高射特科)、情報科、航空科、施設科、通信科、武器科、需品科、輸送科、化学科、警務科、会計科、衛生科、音楽科のうち、選んだのは機甲科だった。機甲科は、戦車部隊と偵察部隊があり、主に戦車の正確な火力、機動力と装甲防護力で敵を圧倒するとともに、情報を収集する。
「バイクがかっこいいと思って(笑)希望しました」
戦車の運転をするためには大型特殊免許が必要で、大分県の玖珠駐屯地に赴任し、無事に取得できた。乗った戦車は60年代、70年代に製造された古い型式だった。その後、一般部隊の隊員として配属されたのは、西部方面隊北熊本駐屯地(熊本市)。第8偵察隊でバイクの免許を取得した。この駐屯地では平成13年から7年間、勤務した。
当所の動機だった調理師免許は結局、取れなかった。入隊して間もなく、それまで隊の食事を隊員で作っていたものが外部委託に切り替わってしまい、実務経験ができなくなってしまったからだ。
レンジャー訓練、PKO派遣
北熊本駐屯地時代に陸曹の試験に合格してレンジャー訓練に挑戦する。レンジャーになったのも自然の流れだった。「バイク部隊の先輩たちがほとんどレンジャー卒業者でした」。バイク部隊は敵の奥深くに潜入して情報を収集する。何日もかかることも想定して訓練は最小限の水と食料しか携帯できない。レンジャー教育で怪我して帰隊すると先輩たちからしごかれる。「ケガしても帰れないというプレッシャーがありました」。
山野を長距離巡り、偵察や警戒、攻撃を行なうレンジャーは、戦後、アメリカ陸軍を手本として陸上自衛隊にレンジャー課程が創設された。レンジャー課程は、おおよそ11週間程度で実施される。7週間の「基礎訓練」と、実戦的な4週間の「行動訓練」の二段階で構成され、基礎訓練では行動訓練に向けた山岳地踏破や潜入に必要な知識と技能の習得が行なわれる。あわせて身体能力を鍛える「体力調整」と呼ばれる科目が並行して実施される。体力調整は3段階に分かれ、段階的に訓練の強度が高まり、最後には過酷な「10マイル走(約16キロ)」が待っている。こう書いているだけでも過酷な訓練だと容易に想像できる。
日名子さんは最初の訓練地である国分でレンジャー訓練に臨んだ。およそ3カ月間の訓練最後の4夜5日間の「最終想定」は飲まず食わずの踏破で途中で訓練も入る。訓練開始当初から考えると「7割くらいは脱落していたと思います」。無事終わったという安堵感と家族に会えるという嬉しさで涙があふれた。「あの時のきつさに比べたら“これくらいは”と自信になりました」。

2012年、アフリカ・南スーダンにPKO(国連平和維持活動)部隊の情報幹部として派遣される。2011年にスーダン共和国から分離独立して建国された南スーダンとスーダンの間に激しい衝突があり、国連が平和活動として乗り込んだ。派遣された自衛隊員は400名。実弾が入った銃やロケットランチャーが普通にある環境下で死を意識することは度々だった。自衛隊に課せられたのは、道路や空港の造設などのインフラを整備する施設隊としての任務だった。
日名子さんの任務は、前後の2個装甲車に護衛されながら、施設部隊の移動経路の安全確認でいわゆる斥候役という危険な任務で、半年間の駐留だった。しかし、途中で南スーダン内で大統領派と副大統領派の間で部族間抗争が激しくなり、国連部隊は施設に集まっている避難民への医療・給水支援活動に切り替えることになった。
日名子さんが衝撃を受けたのは、任務の合間に接した現地の子どものたくましさと明るさだった。
「私の子どもと同じ年くらいの子たちが、ハエがたかって目ヤニがついたままの姿で不衛生なコップで水を飲んでいる姿を目の当たりにした時に、『こんな過酷な現実があるんだな』と思ったんですが、その子たちがものすごくいい笑顔を見せていました。その時に気づいたのは『この子たちの幸せを今まで私のモノサシで計っていた』ことでした」
平和で恵まれている祖国で暮らす日本人と南スーダンの子どもたちの明るさ。日名子さんの人生観がガラリと変わった。
PKO協力法は、自衛隊がPKOに参加するのに厳しい条件を設けていた。⑴紛争が起きている当事者の間で停戦の合意が成立している、⑵紛争が起きている当事者が自衛隊の派遣に同意している、⑶中立的な立場を守る、⑷以上三つの条件が満たされなくなったら撤退できる、⑸武器を使うのは、自分たちの命を守る必要最小限にとどめる、の五つでPKO参加5原則と呼ばれる。つまり、PKO派遣で他国の国連参加軍が危機に陥っていても自衛隊はいわゆる「駆けつけ警護」が禁じられていた。
ある時、現地で自衛隊が危機に陥った時に国連軍に参加していたルワンダ軍に救われたことがあった。しかし、ルワンダ軍が危機に陥った時に自衛隊に下った命令は「身の安全が第一」だった。日本では違法ではないが、国連の参加軍の中では「非常識」だった。
「恩を忘れた形になってしまい、他国軍から白い目で見られて歯がゆい思いをしました」
ちなみに2016年に施行された安全保障法では集団自衛権が認められている。この他にも本国と現場の「温度差」に矛盾を感じるケースも多々あったという。
帰国していくつかの駐屯地に赴任した後、35歳から2年間、横須賀にある防衛大学校で1回生を対象に教鞭を執った。「君たちは私と違ってすぐに幹部になるだろう。心がけてもらいたいのは、『何を護る』のかということを忘れないで欲しい。陸海空でいがみ合っていては何も守れない」と口を酸っぱくして諭したという。「教科書通りでは部下は動きませんから、その基本を教えました」。
愛娘の難病と「八天狗大豆」
教官生活の後は、福岡県春日市の福岡駐屯地へ。戦車部隊で主任を務めた。38歳の時に20年間勤めた自衛隊を辞めた。
「両大血管右室起始症」という難病を抱えて誕生した娘を看病するために夫婦交代で付き添い入院をやらざる得なかった。一尉クラスの日名子さんがいないと部隊の行動に影響が出る。日名子さんの立場では辞めることがなかなか難しかったが直属の上官で熊本駐屯地時代に格闘技訓練の仲間だった防大出身の大隊長に「娘がこういう状況ではご迷惑をかけるので」と辞意を伝えると了承してくれた。4歳の娘は手術が成功し、今ではすっかり元気になっているそうだ。
辞めた動機はもう一つあった。食の安全だ。
娘が入院している時に出されていた栄養食を確認すると、唖然とした。エレンタール(経腸成分栄養剤)。ビタミン、添加物が含まれている栄養剤を娘が吸収することができずにガリガリに痩せてしまった。「人間の体の7、6割は水分でできているので水を安全なものに替えようと」。残りのたんぱく質をどうするか。そこでジュニアプロテイン、幼児向けのプロテインを調べると、添加物だらけだったことに衝撃を受ける。そこで全国各地の大豆を取り寄せて炒って磨り潰したものを子どもたちに飲ませた。家族を健康にするために日名子さんが独自に開発したソイプロテイン「HINAKO」だ。

唯一の素材と製法(農薬:栽培期間中不使用・原種大豆と無酸化焙煎)で作られたソイプロテイン「HINAKO」。
種類は、プレーン、無農薬の八女茶味など7種類。ふるさと納税の返礼品に指定されている。
原料の大豆「八天狗」は、日本古来の在来種で熊本県山都町水増(みずまさり)集落で自家用としてひっそり作り続けられていた。農林水産省がゲノム解析をしたところ、「八天狗」はデータベースにも記載されていなかった日本古来の〝幻の在来種”であることが判明した。現在、熊本市西区でも無農薬栽培が始まっている。
世の中に多くのプロテイン商品が出回っている。そのほとんどが、牛乳から出る「ホエイ」と大豆由来のプロテインに分けられる。ホエイは牛乳から乳脂肪分や主要なたんぱく質であるカゼインなどを除いた液体のことで、「乳清」とも呼ばれている。
「これを使ったプロテインは、ボディビルなど筋肉を増強するのには向いていますが、日本人は本来植物由来のたんぱく質が合っていると思います。従来の大豆由来のプロテインの多くは、ほとんどアメリカ産、中国産、国内産でも丸大豆が使用されていて、大豆油を搾ったカスを2次利用したもので栄養素がないため添加物を加え、飲みやすいように人工甘味料も加えています」
品種改良されればされるほど栄養価が落ちる。八天狗大豆は小粒だが、在来種のままずっと護られてきたため、栄養価がぎっしり詰まっている。
国内生産量のわずか0.1%しかない「金ゴマ」を入れている。製品は4年前に完成した。販売に踏み切ったのは自分の体験だった。試すと、半年で12キロ減量できた。