2025年4月号 人・紀行 ─ 原田啓之さん

過去に何度か福祉関係を取材して分かったような気持ちになっていたのだが、原田さんの話を訊き終えての筆者の感想は、「本当の福祉とは何だろう」という幼稚なものだった。何とも情けない。特に障害者福祉に関しては、原田さんの話を訊いて自身の無理解を痛感することになった。それは、筆者も含め健常者側の「お金を出していればいいだろう」というある種の傲慢さ故の無理解があるのではないか。
或る少年の決意
国の社会福祉は充実していると言われるが、それは物質主義に陥ってしまい、障害者とその家族の内面を汲み取る本来の「福祉の心」が置き去りにされているのではないか。原田さんの話を訊いていくうちに自分の無理解さに呆れてしまう。また、近年よく使われる、障害者や高齢者といった社会的な弱者に対して特別視せずに、誰もが社会の一員であるといった捉え方「ノーマライゼーション」の在り方もあらためて考えさせられた。
取材場所は、佐賀県基山町にある「きやま鹿毛(かげ)医院」。ちょうど2月8日から始まった「PICFA EXHIBITION 2025 病院が美術館になる日」が開催中で主催者代表の原田さんにその合間を縫って時間を作ってもらった。
四百年続く「医療法人 清明会」 きやま鹿毛病院内に2017年にオープンした PICFAは就労継続支援B型施設。病院内に障害者支援施設が設置されたのは日本で初めてのことで、知的障害や自閉症、ダウン症などの利用者が創作活動を仕事にしている全国的にも珍しい施設だ。絵画やデザイン、オリジナルグッズ制作、またイベント企画や実施などの活動を行なっていて、そこで得た収入は、利用者の工賃(給与)となる。その活動の一環がこの展覧会だ。今回で6回目を数えるが、病院内で開催するのは今回が初めて。
医院は、同じ法人が運営する「やよいがおか鹿毛病院」に入院や手術機能を移転させて、透析や内科、レントゲンなど一部の空間で稼働させている。展示会はかつて入院患者がいたフロアで開催されていた。展示された作品は、PICFAメンバー19名の作品を軸に全国の障害のある作家、立体作家のはしもとふみお、KYNE(キネ)、巨匠黒田征太郎、ICHI(イチ)など障害の有無を問わず国内外で活躍しているアーティストの作品も展示された。展示数は300点。「障害者施設が企画、施設内でフラットにそれらの作品を一堂に展示される展覧会は全国でも初の試みです」(原田さん)。1000円入場料で来場した人は16日間で2000人を超える盛況だった。
施設名のPICFAは、「PICTURE」(絵画)と「WELFARE」(福祉)から取った造語で、利用者の創作活動と福祉の両方を追い求めたいという思いが込められている。
23年前の2002年に日本で初めて障害者がアートを仕事にする施設設立に参加し、街中でライブペイント、展示会を手掛けてきた。「1万2千人の観衆の前で自閉症の方のライブペイントもやりました」。こうした取り組みに対して特に同業者から
『障害者を見世物にするのか』
『おカネを稼がせる道具に使っている』
『アートが仕事になるはずがない』
などの誹謗中傷を受けたこともある。しかし、実際に観た人から「すごい」と肯定されたことが原田さん自身と利用者たちに勇気を与えてくれた。また、仕事で他県へ移動する際、障害のある利用者たちもそれぞれシングルルームに泊まるようにしている。社会経験を積むことで彼らの世界が広がるからだ。
「僕はアートをあくまでも媒体として使うことで彼らの人生が広がっていく。アートがお金になれば彼らの自立も促せます」
原田さんの究極の目標は、障害者を持つ親、特に母親が死ぬ時に「あとは宜しく!」(原田さん)と笑える仕組みを作ることだ。
40年ほど前。
小学3年生の或る少年は、かつてスラムと揶揄されたくらいに荒れていた福岡市内のとある地区の小学校に通っていた。少年には、知的障害を持つ2歳上の兄がいる。小学校も放火や喫煙とかなり荒れていた。兄と一緒に遊びに加わる。サッカーではボールを手に持って走って逃げ回る…「あんなバカな兄貴を連れてくるな」と遊び仲間から罵倒され、石を投げつけられたり金属バットで殴られて血を流し、ある時は兄弟2人は砂場に埋められた。
「兄貴を連れていかなければみんなと遊べる」
少年はボーイスカウトで習ったロープ結びで兄を自宅の柱に縛り付けて遊びに出かけた。少年には罪悪感は全くなかった。実際、帰宅すると兄は弟が遊んでくれていると思ってニコニコと笑顔だった。それを見た母は少年に「あなたが兄ちゃんを守らなければ、私が死ぬ時に兄ちゃんを殺して死ぬわ」と泣きながら告げた。
小学3年生の少年は、この時から兄の障害を受け入れ「僕が兄貴を守らなければ」という意識がしっかりと根付いた─
或る少年こそが原田さんだった。
アートを仕事にする
中高はソフトテニス部に所属、東福岡高校2年生の時には全国大会で優勝を果たす。卒業後はテニスの道も考えたが、「兄貴を守ること、そして母の苦悩を軽くしたい」という宿命の先にあった福祉の道を選んだ。「福祉の概念を変えたいという思いが強くなっていましたね」。愛知県の日本福祉大学に進学する。
3、4年生の2年間。「障害者を抱えた母親が死ぬ時に笑いながら『あとは任せました』と言える仕組みを作りたいと計画を作ってみたら、100年かかることが分かりました」。原田さんはその100年構想を作るために自閉症の生涯を調べたり、100人の保護者に死ぬ時に何を思うかというアンケートを取った。
そんな研究活動の中で気づいたことがあった。
言葉が未発達の障害児は自分の意思を示したい時に目的の絵が描いてあるカードを示すか、自分で絵を描いて意思を示す。「teachという手法で訓練されたので描くことが好きな子が多い。遊びは当時、テレビゲームが苦手な子も多いので、紙を破って貼り絵にして遊ぶ子も多いので、それを仕事にすればいいと」。100年構想のスタートは、まず好きなことである描く、作る、壊すことを続けることができるように「アートを仕事にする」ことから始めることになった。
障害者施設では利用者が軽作業などで得た工賃が支払われる。しかし、毎日働き、そして、本人が欲しいものや必要とするものを購入できるような自立した生活には到底足りない金額。
兄が自分の工賃3000円から1000円を学生時代に帰省した原田さんに小遣いを渡してくれた。障害を持つ兄が稼いだ貴重なお金だが、原田さんはすぐに遣った。
「お金の価値が分からない兄が弟にくれた小遣いの重さに耐えられなくて…その時に『兄貴がきちんと稼げるようになればいいんだ』と気づきました」
大学を卒業後、社会福祉法人の知的障害者通所授産施設立ち上げから関わることになる。早速、原田さんが練った構想の第1段階である「アートを仕事にする」活動を始める。利用者が絵を描き始めたと同時に営業を始めた。それまで営業どころかビジネスをやったことがない。飛び込み営業を始めた。5年間、通常業務を終えた後に片っ端から企業を訪問、終わった後は事務所に帰ってプレゼン資料の作成や修正をやって帰宅するのは午前2時という日々が続く。プレゼン資料作成も初めて。全く分からないので大手広告代理店をアポなしで訪ねてやり方を臆面もなく訊いて回った。
アポイントなしでいきなり社長室を訪ねることがほとんどだった。関心を持った経営者は意外に多かった。ある日、飛び込みで入った社長室。
「どうやってヒット商品を作って売るんですか?」
「君は間違っている。福祉施設は潰れないだろ?」
「僕は100年のプランを持っているので、利用者がどうやって稼ぐかが課題なんです」
「研究、製造ライン、宣伝、営業活動などヒット商品を生むためには莫大なコストがかかる。企業は売れないと潰れる。だから、ヒット商品を生むのではなく、必死に売るからヒットする。福祉施設はそんな努力は要らないだろ?寄付するからじっくり考えなさい」
「寄付より仕事が欲しいんです」
翌日。すでに作り始めていた木工品100個ずつを段ボール2箱に詰めてアポなしで再訪する。
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