2024年6月号 人・紀行 ─ 中嶋ジンロウさん(57歳)ミュージシャン カフェ&バー店主
取材場所であるジンロウさんが経営する店に入ってまず目に飛び込んだのは、棚にぎっしりと並べられている1千枚ほどのレコードと懐かしいレコードプレーヤーとスピーカーだった。10代の頃、もっぱら音楽を聴くことにはまった筆者にとって、「レコード」は青春そのものであり、そして失われた「何か」だった。
失われたもの
冒頭から青臭いことから始めた。失われた「何か」を考えてみたからだ。それは、まだ世間を知らない無垢な頃に何を考え、何に憤っていたかを思い出すこと。志を立てようと思っても、なかなかその目標が見つからず、もがいていた時代だった。そんな鬱屈した気持ちをある時は表現してくれ、ある時は晴らしてくれたのが、音楽、レコードだったことに今更気づかされる。
大衆の理解を得られなくなり瓦解した学生運動。金権政治…多感な時代にそうした現実を見せられ、失望感を味わった。立志。将来の目的を定めて、これを成し遂げようとする志をなかなか立てられなかった10代。そうした時に自分を何らかの形で救ってくれたのが、レコードだった。
しかし、20代から次第にレコードから遠ざかり、気が付けばレコードに代わって、カセットテープ、CD(コンパクトディスク)が登場し、あれよあれという間にMD(ミニディスク)、そしてダウンロードの時代になって、今ではストリーミング(デジタル配信)が主流になって、スマホで音楽を自由に聴ける時代になった。筆者は、CD時代までは辛うじて聴いていたが、それ以降の目まぐるしい技術進歩に追い付くことを諦めていた。しかし、2000年代に入ってレコードが復活の兆しを見せ始めた。それでもレコードプレーヤーを買う気が起きず、「音無し」の生活を続けている。
そんな筆者は、この店に入ってにわかに興奮を覚えた。高校時代に100枚集めていたあの記憶が蘇ったのだ。話を聞く前に、どんなレコードがあるのか、オーディオは? と質問してしまう。試しにクィーンのアルバムを所望、好きなアルバムは残念ながらなかったが、数十年振りにクィーンのレコードを愉しめた。こちらの思い込みかもしれないが、やはり、レコードの音は違う。と、ジンロウさんに感想をもらすと、「実際にレコードの音質がいいんですよ」と説明してくれた。
今回はその説明から入っていきたい。ジンロウさんは、店に置いている1千枚のレコードのほかに自宅には500枚以上所蔵している。よく捨てずにと思うが、レコードは見直されているらしい。今やアメリカ、イギリスでレコードはCDの売り上げを追い越しているそうで、日本もソニーがレコード製造を再開し、生産が追い付かない状態だという。なぜ、レコードが見直されつつあるのか。
レコードは音楽信号をアナログのまま記録したもので、CD以降のメディアはデジタルデータを記録したもので、音質の違いに原因があるようだ。「デジタルは長く聴いていると、耳に負担がかかります。恐らく、人間の耳では捉えられない高周波の音が出ていて、それが影響していると思います。特にイヤフォンは耳によくないようです。やはり、スピーカーから直接聞く音が柔らかく、生に近いですね」。ジンロウさんによると、CDはいずれ無くなって、レコードとデジタル配信の二極化になるだろうとのこと。「デジタル配信の音はデータを狭い光線の中に詰め込むので、音域が狭くなります」。制作・発信のしやすさ、手軽さではデジタルの方に分があるが、音質ではアナログ、レコードが圧倒している。ただし、レコードを聴くには環境の問題がある。集合住宅で大きな音で聴くには近所に迷惑かけるので、躊躇してしまう。そういう意味では、ジンロウさんの店のように堂々と大音量で聴ける場所は、筆者のような往年のレコードファンにとってありがたい。
片田舎から「めんたいロック」目指して
そのジンロウさんは、独立前も元々サラリーマンとして働きながら音楽活動を続きてきた。
昭和42年(1967)、人吉盆地を流れる日本三大急流として知られる球磨川が流れる人吉盆地の上流域・熊本県球磨郡多良木町に生まれる。父は郵便局職員で真面目一筋の人物だった。プロ野球の1試合19奪三振の日本新記録を持つ(最多勝1回)野田浩司投手(阪神―オリックス)は小中の1つ下の後輩で小学校のソフトボール大会の決勝で投げ合い、ジンロウさんのチームが優勝したのがいい思い出になっている。
中学時代は軟式野球部に所属するが、身長が低いので限界を感じていた。そんな時にロックに目覚めた。中でも「アナーキー」や売り出し始めていた「RCサクセション」の忌野清志郎(いまわのきよしろう)の強烈なメッセージソングに衝撃を受けた。「自分の想いをストレートに表現するのに憧れました」。
高校は地元の名門・人吉高校に進学する。高校ではバンドを組んだ。「モテたい」という単純な動機だった。高校2年生の時、人前で初めて演奏することになった。3年生のための予餞会。女子には全くウケなかったが、代わりに怖い先輩たちにウケてしまった。高校卒業後は、「めんたいロック」に憧れ博多でのバント活動を夢見ていた。当時の博多では、フルノイズ、ザ・キッズ、モダントールズ、アンジー、アクシデンツなどが気を吐いていた。
とにかく、音楽をやるために博多に出たい。真面目な父をどう説得するか悩んだ末に、公務員専門学校に進学することで許された。ジンロウさんとしては、学校に通いながらバンド活動をやる目論見だった。2年通って、無事に郵便局に採用される。専門学校の寮で知り合った寮生(ギター)とバンドを組んだ。ドラム、ベースはレコード店、楽器店に募集の貼り紙で募集した。20歳で郵便局に就職した後もサラリーマンとバンドの二足の草鞋を履き続ける。バンド名は「Smile breakers」でそれまでパンクロックのコピーを演奏していたが、この頃からオリジナルも作り始めた。当時はテレビ番組『三宅裕司のいかすバンド天国』通称イカ天でバンドブームだった。九州一円で月に3、4本のライブをやる傍ら、カセットテープに吹き込み、自主販売していた、そんな時にデビューの話が舞い込んだ。
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