2024年5月号 情熱九州 vol.40 ─ フリーMC 幸野 向日葵さん
人の人生を描く時、いつも筆者を悩ませるのが、取材対象者のその心中をいかに的確に表現できるかだ。ときに荒波にたとえられる人生の理不尽や厳しさ。その艱難辛苦のきつさの本質は本人にしか分からないのだ。
負のスパイラル
今回の取材前に主人公のひまわりさん(本人の希望でこの呼び方に統一)の紹介者から聞いていたのは、「小中高校時代の不登校を乗り越えて、MC(司会業)として立派に独立して活躍している女性」という情報だった。不登校をテーマに取材したことは過去に数回あったので、興味はもちろんあったが、内心、訊きやすいテーマだと少し高をくくっていた。
ところが…1時間半にわたるインタビューを終えて、自身の甘さを痛感することになった。
幸野さんのまだ30年少ししかない人生の中に、艱難辛苦がぎっしりと詰められているとは想像だにしていなかったからだ。同時に、これだけ苦しい体験を経て、彼女がたどり着いた道を何と表現すればいいのだろうと、取材を終えて熊本から福岡に車を走らせながら、頭を悩ませた。
さて、今から彼女の艱難辛苦とそれを乗り越えた軌跡を綴っていくが、本人の承諾をもらって、ほぼすべてを書き尽くすことにする。
平成4年(1992)、熊本市で3人兄姉の末っ子として生まれる。父は中学校の理科教師、母はNTT職員の共稼ぎ家族に育った。両親は公務員と大手企業の会社員という、いわゆる安泰な家庭に育ったようだが、小学校6年生の時から学校に行けなくなった。
教員である父はもともと教育や子育てに厳しかったが、4つ上の兄が高校受験の年になったことで、躾が一層に厳しくなった。昔は当たり前だったが、大きな怒号や、時に手も出るのが父の教育スタイルだった。愛情深い父親ではあったが数々の生徒を見てきた父にとっては、我が子を案ずる気持ちが厳しさになって現れてしまっていた。そんな父の気質は、きっと父の家庭環境譲りなのではないかと、ひまわりさんが大人になった今では察することができる。
「どちらかというと、祖父(父の父)より、祖母(父の母)の方が家庭では力が強く、感情的に喜怒哀楽を見せる妻に何も言えない自分の父の姿に『あるべき父親像』がわからないまま、父は父親になったように思います」
今ではそう冷静に分析できるが、当時、小学生だったひまわりさんにとって、厳しさの裏側の愛情に気付ける年齢ではなく、恐怖以外なにものでもなかった。愛情深く、厳しい父は私のことが嫌いだか怒っている、怖い父でしかなかった。幼いひまわりさんはそれを自分の所為だと思い込んで、ご機嫌を取ろうと父の顔色を窺う日々だった。機嫌を取ろうとしても、必要以上に明るく振舞っても、父の機嫌はなおらず、「私が悪いから父は機嫌が悪いんだ」。
家族はギクシャクしていて何もかも思い通りに行かない日々の中、一つだけコントロールできたものがあった。
それは「体重」だった。
小学6年生の時に安易に始めたダイエット。それまで何もかも自分の思い通りにならなかったのに、体重だけは食べなければ簡単に減っていった。少しほっそりすると、周りの評価も簡単に変わった。「可愛くなった」という声をそのまま喜んで受け取り、「食べなければ痩せる。痩せれば褒めてもらえる」。その快楽にどっぷりハマっていった。
それまで標準的な体重、体格だったが、成長期にやってはいけない減量を続け、歯止めがかからなくなって拒食症になってしまう。当時の担任は、体重が激減したひまわりさんを見て、給食を通常の2倍、3倍と盛ってくるようになり、拒食症にとって苦痛な給食時間だった。そんな担任との相性や、交友関係など、学校生活もうまく行かず、3学期にはついに学校に行けなくなった。
ダイエット前は36キロあった体重は29キロになっていた。結局卒業式にも出ることもなく、卒業アルバムの寄せ書きページは白紙のまま残っている。
末っ子のトラブルがさらに家庭を荒ませることになった。
ひまわりさんの姿を見て、成長した兄は父に反抗し親子ゲンカ、拒食症の本人は「食べろ」と言われても喉を通らない日々…たまらず母方の祖父母にSOSを出してかばってもらった。
中学に入学し心機一転、登校できるようにはなったが、拒食症は続き、中学2年生の時は体重が25キロ、小学3年生の平均体重しかなかった。
ところが、再び不登校の危機が訪れる。
2年生のゴールデンウイークに拒食の反動で食べるようになり、ひと月ほどで20キロ増えた。過食症になってしまったのだ。ショックを受けて、食べ物を戻そうとするがうまくできない。あれよあれよという間に半年間で40キロも増えてしまう。中学2年生という多感な時期に半年で40キロも増え、ついに65キロまでになってしまう。何度も繰り返さなければならない制服の補正。写真に写った醜い自分を見て、ひまわりさんは激しい自己嫌悪に陥る。
3年生に進級すると再び学校に行けなくなった。
受験を控えた大事な時期だったが、それまで、家では食べろと言われたり、ギクシャクした居間から離れたくて、ひたすら勉強していて、その甲斐あって中学2年までの成績は比較的上位だった。その余力と受験が早かったこともあり、推薦で国立八代工業高等専門学校(現熊本高等専門学校)に合格する。
卒業まで不登校が続いたが、何とか卒業して、入学。
5年間の寮生活が始まる。「元々家族愛は強い方だと思うんです。ただ、家庭内がグチャグチャになっていたので、いったん家族と距離を置きたかった。「私が建築士になって家族みんなが楽しく過ごせる家を作りたいと思って、建築科を志望しました」。
誰も知らない環境でゼロから始めようと希望に胸を膨らませた。しかし、太ったままではいけないと、また、ダイエットの罠にはまってしまう。一年ほどで20キロ落とした。
しかし、頻繁に訪れる過食や嘔吐の衝動。寮内の共同生活では、人目を盗み、消灯時間を過ぎてから夜中に食べたものを吐き出す毎日だった。寝るのはいつも深夜の3、4時。その状態で朝は起きられず、常に寝不足で学校に通う。
このままではもたない。2年目の半ばで休学し、実家に帰った。「新たな自分を発見しよう」としばらくはアルバイトをやって過ごした。しかし何も変わらないまま、復学してまた同じことを繰り返し、再び休学。
入学当初、新しい環境や拒食症時の過活動の影響で一年生の時の成績はよかった。しかし、それがプレッシャーとなり、完璧主義のひまわりさんは、「また学校に戻っても元の成績を収めるのは無理だ。落ちぶれる自分が許せない」と観念して、高専から退くことを決意する。
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