即興性と音の多様性─聴衆と共に心から愉しむ 「無名の強さ」という音楽スタイルを貫く


2024年6月号 人・紀行 ─ アライタケヒトさん(43歳) アコーディオン奏者

人生には、思いがけない幸い、僥倖に出合うことがある。しかし、それに気づかないか、気づいても一歩踏み出すことに躊躇して手が出なかったりして、そのチャンスをみすみす逃してしまうことも多い。この稿の主人公、アライさんは、偶然出合ったアコーディオンという楽器に魅了され、プロになった。

アコーディオンという楽器

幼い頃にアコーディオンの音を聴いたという薄い記憶があるが、アコーディオンと聞いてすぐに頭に浮かんだのは、のど自慢や歌合戦で楽しそうに伴奏している「アコーディオンのおじさん」横森良造さん(故人)だった。哀愁がある調べ、聴く人を元気づける明るさ…幅広い曲調というのが筆者のこの楽器に対する記憶だった。あらためて、調べてみると、納得がいった。

アコーディオンは蛇腹(ベローズ)を備えたふいごを押したり引いたりすることで風を送り込み、金属製のリード(空気を吹きつけることによって振動させ音を出す器具)で発音させるリード楽器。主に旋律用の右手側鍵盤、伴奏用の左手側ベースボタンを使って演奏され、ソロ楽器としても豊かな表現力を持つ。アコーディオンは一人で主旋律と和音伴奏を奏でることが出来る万能な楽器。持ち運びが便利であることに加え、野外の演奏にも適していることから、様々な音楽ジャンルで使われている。シャンソンやフランスの地方の民族音楽であるミュゼット、アイリッシュ音楽やカントリー音楽、さらにはタンゴ。ありとあらゆるジャンルを楽しむことができるため、非常に奥が深い楽器だと言える。

アコーディオンが生まれたのは19世紀のことで、1821年にドイツ・ベルリンのフリードリッヒ・ブッシュマンによって発明されたと言われている。
それから8年が経過した1829年にはオーストリア・ウィーンのシリル・デミアンが改良を加え、アコーディオンという名で販売が開始された。

日本へは江戸時代の末に伝来した。美保神社には、嘉永2年(1849)に奉納された「日本渡来最古のアコーディオン」が現存している。五雲亭貞秀の幕末の錦絵にも、アコーディオン(現在と左右が逆の古いタイプ)を弾く米国女性が描かれている。西南戦争で最後まで西郷隆盛と行動を共にした村田新八がアコーディオンを好んで弾いたことは有名。

その後、日本ではアコーディオンの流行期と衰退期が交互に繰り返した。金子元孝によると、明治30年代の関西での「手風琴」が大流行する。ちなみに風琴とはオルガンのこと。当初、アコーディオンは輸入品ばかりだったが、明治30年代に入ると国産の「手風琴」の製造販売も見られた。(ウィキペディアより)

演奏者1人で、右手で旋律、左手で伴奏をつま弾きながら、蛇腹を動かし空気を送るという奏法はまさに1人3役。さらに、前面に抱えて持ち運びが容易なので、いろんな場所で即興演奏ができる大衆向けの優れた楽器だと言える。

執筆前に動画でアライさんの演奏を鑑賞した。どことなく哀愁を感じさせる『あなたとワルツを踊りたい』と気持ちを明るくさせる『恋のワルツ通り』の2曲の代表曲とも、曲の素晴らしさもさることながら、演奏するアライさんの表情が実に楽しそうなのが強く印象に残った。

ドロップアウト

アライさんは九州では数少ないアコーディオン奏者で、自分探しの途中でアコーディオンに出合い、プロとして活躍している。

福岡市南区にサラリマン家庭の二人兄弟の次男として生まれる。幼稚園時代に園内にあった教室でピアノを習い始めた。「小学校まで幼稚園の教室に通いましたが、叱られながら教わったので苦手な気持ちがありました。自分で『習う』と始めた手前、やめると言えず小学校にはいっても通いました」。中学生に入ると個人レッスン教室でピアノを続けた。この頃、友人と遊び心でギターを弾いていた。

福岡県下でも有数の進学校、筑紫丘高校に進学する。この頃、アライさんは違和感を覚える。

「進学校でみんな一所懸命受験勉強をやって、いい大学を目指すんですが、嫌がりながらも勉強してランク付けされる。そしてできるだけいい企業に入る。それ以外選択肢がないのに疑問を感じました」。そこで大学を受験しないと決めた。父からは反対される。高卒の父は大卒者に先を越された体験があったため、せめて息子は大学に進学させたかった。しかし、進学しないというアライさんの意思は固かった。かと言って、音楽関係に進みたいなど明確な目標はなかった。「とにかく、みんなと同じ列に並びたくなかったですね」。俗に言う、すねたりぐれたり、ついていけないという落ちこぼれ、ドロップアウトとは違い、アライさんの場合は反骨心と言うよりは、飄々として自分に正直に生きたいという思いだったのだろう。「人が大勢いるところは別に僕がいなくても成立しているので、わざわざそこに加わる必要性を感じませんでしたね」。

進学校ゆえに高校からは就職をあっせんされないので、卒業してフリーターの道に入った。「とにかく働いて自活する。ここからじゃないと何も始まらないと」。昼間は郵便配達、夜はレストランと掛け持ちで働きバイト代を貯めて実家を出た。1年後、次のステップに進むために充電しようと、バイクにテントなど野宿道具を積んで3カ月かけて沖縄から北海道まで日本1周に出かけた。最初の訪問地、沖縄で2週間過ごし、いったん九州に上陸して九州各地を回り、実家に戻って準備を再び整えて、日本海沿いを北上し北海道に入った。北海道で2週間過ごして、今度は太平洋側を南下し、東京、関西に進学していた高校のクラスメイトの下宿に泊まりながら九州に戻った。


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