「米は精神的支柱。農業は儲かるはず」家族経営こそ明日の日本農業を救う


2024年5月号 人・紀行 ─ 井上信幸さん(78歳)

高齢化、後継者不足、低い食料自給率…日本の農業を語る時に必ず出てくる言葉だ。つまり、このままでは日本の農業は早晩、立ち行かないことを裏付けている。しかし、この稿の主人公、井上さんは代々続く農業を引き継ぎ、専業農家としてしっかりやり続け、後継者にバトンも渡せている。 

進取的な家風

 井上さんのこれまでの軌跡は、戦後の日本農業の歴史と軌を一にしていると言っていいだろう。改めて書くまでもないが、日本農業は衰退の一途を辿っている。特に、基幹的農業従事者」の数は激減している。1999年に約234万人だったのが2022年には約123万人。高齢化も進み、基幹的農業従事者のうち50代以下は1999年に約88万人だったが2022年には約25万人と七割以上も減少している。特に米など土地を多く使うタイプの農業が深刻で、耕せない農地が大幅に増え、食料生産の基盤がさらに弱体化する可能性が高まっている。そんな日本農業の中で井上さんは逆に専業農家として進取的な取組で家業を盛り立ててきた。農業一筋に生きてきた井上さんの人生の軌跡とは―

 昭和21年生まれの井上さんの家は代々筑紫野市阿志岐地区で農家を営み「小さい頃から七代続く」と聞かされて育った。長男で跡取りの井上さん自身も幼い頃から農業を継ぐものと思って育った。しかし、周囲の同世代の跡取りやその親たちは「今からの時代、農業はきつい。給料取りがいい」という風潮だったという。福岡農業高校に進学するが、「農業希望者は1クラス40名の中に10名もいませんでした」。井上さんが高校に進学した昭和30年代半ばは時の池田勇人首相が「所得倍増計画」を打ち出し、高度経済成長時代のとば口に立った頃で、仕事を求め農村から「金の卵」と言われた若者が東京などの大都会に続々と集団就職した時代だった。「農業志望者を『自営組』と呼んでいましたが、そのグループが成績はいつもトップ10でしたね」。

 幼い頃から家業を手伝っていたが、井上さんが小学校を卒業する頃、農業の機械化が始まった。耕運機や田植え機が実家にも入ってきて、作業がぐんと楽になった。「それまで立ったまま長い距離を田植えやっていてきつかったんですが、機械が入って楽になりました」。田植えの最盛期には日が暮れるまで田植え、帰って夜食を摂った後は、真っ暗な中、翌日に植える苗を取り込む作業、翌朝は朝から日が暮れるまで田植えという毎日。井上家では麦とコメの二毛作。麦を刈り入れた後に田んぼの土をなるべく乾燥させ、肥料を混ぜる作業「田起こし」をやって肥料と水を入れて、土をさらに細かく砕き、丁寧にかき混ぜて、土の表面を平らにする「代掻き」。田植えが始まるのは6月下旬頃からだ。食事は朝、午前10時、正午、午後3時、そして夜食の5食だった。機械が入る前までは、それがコメ作りの常識だった。「百姓はするものじゃないという意識は自然でした。うちの父さえ妹の嫁ぎ先は『百姓の家はやめとけ』と言っていたくらいですから(笑)」

 父は進取的な性格で近隣でもいち早く機械を導入した。「今の機械の方が断然性能がいいですが、当時はこのおかげでずいぶん楽になりました」。父は営農に関しても進取的だった。当時、米は国の食糧管理法により国が買い取っていた。ちなみに平成8年(1995)に同法は廃止される。当時、国に売ったお金は前渡しだった。父の口癖は、「この前渡し金を残せるのが、いい百姓たい」。井上さんが結婚して独り立ちする時に、父から「前繰りをしっかりしろ」と口を酸っぱくして言われ、翌年を見越して肥料などの農業資材を買うようにした。これならば、天候不良による不作や農業資材の高騰にも対応できる。実際、ロシアによるウクライナ侵攻によって肥料価格は4割も上昇したが、後継者である息子も前の年に肥料を仕入れて、父から井上さんへ受け継がれてきた「前繰りの教訓」が生きた。

 父の進取的な取組を井上さんはしっかりと引き継いだ。高校で野菜作物部に所属していた井上さんは、地区の農協で初めてビニールハウスで半促成のナス栽培を始めた。時期をずらすことで温室を燃料で暖める必要がないので、大幅に経費を低減、利益率を向上させた。ナスの販売で資金を回せるようになって、米の収入はすべて貯蓄に回せるようになった。「農業が苦になるならやらない方がいい。農業を楽しめるのならぜひやってもらいたいですね。農業ほど儲かる商売はありません」。

 野菜は利益率が確かに高いが、井上さんは「米こそ農業の土台」だと強調する。米が収入の柱にならなくても、米さえあれば食糧危機があっても堪えられるからだ。精神的基盤としての米があるからこそ、野菜などほかの作物にも安心して挑戦できる。しかし、ナス栽培を始めた頃は、周囲の目も冷たかったという。「当時は稲作農家が野菜を作るなんて、という空気が強かったんです」。また、終戦後の農地改革で農地を取られた苦い経験が他人に農地を貸すことに抵抗があった時代だった。

 しかし、高齢化や後継者不足が進み、田んぼの端や水はけが悪い田んぼは、徐々に農地を貸してくれるようになっていく。地元に加え太宰府市、朝倉郡筑前町など4市1町で借地はどんどん広がっていき、1町7反の先祖代々の農地から、約30倍の30町、30万平米まで広がった。「貸してくれるところならどこでも借りていました」。

 昭和40年代に入ると、ブロッコリーの栽培を始める。ちなみに、ブロッコリーは令和8年(2026)度から国民生活に重要だとして国が位置づける「指定野菜」に加えられることになった。指定野菜に新たな野菜が加わるのは、昭和49年(1974)ばれいしょ(じゃがいも)が追加されて以来、実におよそ半世紀ぶり。それまで麦を作っていたが、作付け時期が重なるので、麦の栽培量を抑制し、ブロッコリーに作業を傾斜させた。「当時も県の安定供給指定野菜で価格は補償されていました」。最盛期には1日10万円の収量があった。周囲の仲間にブロッコリー栽培を勧めていた。

水田と家族農業

 井上さんの営農哲学は、多角化に加えて、家族農業だという。「農業は家族抜きでは語れません」。農業への企業参入や大規模農業が促される中、家族農業は時代に逆行している感もあるが、井上さんは政府が家族農業を崩壊させ、その結果自然環境が崩れたという。「戦後の農政はアメリカの後追いです。つまり、大規模農業ですが、四季があって水が必要な日本の農業風土には合いません」。

 例えば、稲作には大量な水が必要だが、それは土壌を洗浄するためで、水をうまく循環させて初めて毎年同じ品質の米が作ることができる。また、田んぼの保水力、いわゆる「田んぼダム協力」は、雨水を一時貯蔵し、下流及び周辺に徐々に流すことによって洪水を防止、軽減する 大雨の際に水を一時的に貯え、水が川へ流れるのを遅らせて、流域の浸水や下流での洪水を防止する。水田はかんがい水を緩やかに浸透させ、地下水位の急激な上昇を抑制できる。年々、水田が持つその機能が低下している。

 もう一つ、井上さんが危惧しているのは、田んぼを畑に切り替える農家が多いことだ。畑には保水力がない。「このままでは地下水が足りなくなるのではないか」。


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